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吉野川を下流から撫養[むや]街道に沿って登りつめると、池田という町につきあたる。その先、吉野川は急に南に折れ曲がり、小歩危[こぼけ]大歩危[おおぼけ]といった奇観を呈する深い谷間のかなたへ消えてゆく。

この町は、鎌倉時代に早くも城が築かれており、古くから軍事上の要害であった。現在も香川と高知を結ぶ国道32号、徳島と愛媛をつなぐ192号がこの地で交差している。

「四国の臍[へそ]」と呼ぶ人もいる。

そして、この地は、吉野川の水利においても臍[へそ]となった。


残念なことに、水路の多くは通常の道路地図に載らない。

したがって、この池田町から“新たなる川”香川用水、そして、撫養街道沿いに「もうひとつ の吉野川」と呼ばれる壮大な水路が築かれたことを知る人は少ない。


吉野川北岸用水。

約7,000haの田畑を潤し、幹線道路だけで70kmに及ぶ大農業用水である。

この広大な土地が、水路一本で“生きた土地”になった。


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洪水の国、徳島の矛盾。「月夜にひばりが火傷する」と自嘲した吉野川北岸用水一帯の農民は、どれ程この用水の完成を待ち望んだことであろう。

ようやく徳島は、この用水によって吉野川という“大きな果実”を実らせることができることになった。

明治末期、藍作の失墜[しっつい]以来、実に80年という長い年月を要したのである。

これもまた、香川用水に劣らぬ歴史的大事業と言えよう。


川が天与の大財ならば、

水路は人間が生み出した恒久の資産。

そして、土地をつくるのは常に名もなき蒼氓[そうぼう]、農民達の血の滲[にじ]むような闘いであった。


水利事業という名の。天の采配にも似た大地への刻印。

地図には記されなくとも、もう一つの吉野川は。着実に新たな歴史を刻んでいくことであろう。


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