title

和辻哲郎は、その著書『風土』の中で「歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない」と述べている。

“風土”は“水土[すいど]”と言い換えてもいいであろう*1

古事記の昔から現在に至るまで、歴史と離れた“水土”もなければ“水土”と離れた歴史もなかった。

そして、この先も人と“水土”との関わりがなくなることはないであろう。


吉野川という特異な川の歴史は、四国に多くの農業土木技術者を生んだ。西島八兵衛、野中兼山、伊澤亀三郎、後藤正助、豊岡茘暾、松下節也、大久保●(言へんに甚)之丞、井内恭太郎*2・・・、名前をあげればきりがない。

そして、彼等とともに命をかけて命をかけて闘った幾万という名もなき蒼氓[そうぼう]。

すべては、“生きた土地”をつくる、つまり“農”のためであった。


さらに、昭和の偉業、吉野川総合開発。

もう古事記の記述「身一つにして面四つあり」ではない。私たちの時代、吉野川という大財を生かすことにより、四国は「面四つなれど身は一つ」になった。


いま、四国の田畑には豊かな作物が実っている。

そして、それらは恐らく藍よりも青々としているに違いない。

あたかも吉野川の洪水に代わる、豊かな緑の氾濫。


「自然美の保全、人文と自然との調和の育成こそ、一国の文化水準、国民のモラルの高さを示す重要な指標の一つである」*3


過去この大河と闘い、あるいは、のまれていった多くの墓碑銘[ぼひめい]に誓おうではないか。


未来永劫[えいごう]、私たちはわすれないでおこう。

四国の歴史を奔流しつづけてきた吉野川の大きな恩恵を。


そして、“水と土と農”が私たちの社会に果たす偉大な役割を。




※1「ここに風土と呼ぶのはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称である。それらは古くは水土とも言われている」(和辻哲郎『風土』)。ちなみに江戸時代。「環境」という言葉はなく、多くは「水土」が用いられた。

※2

西島八兵衛……1596年、浜松出身。伊勢の藤堂高虎に仕え、讃岐生駒藩(香川県)の客臣となる。満濃池の再築、新田開発、治水に大きな功績を残す。

野中兼山………土佐藩財政の基盤強化を築いた天才的土木技術者。江戸初期、高知分水を行っている。明治末期の平山発電所は、兼山の水路を利用。

伊澤亀三郎……1750年、徳島県阿波町出身。新田開発、伊沢市堤、鮎喰川堤防等、治水、利水に多くの足跡あり。藩政期随一の土木技術者。

後藤正助………1787年、徳島県国府町出身。藍商ながら米作の転換を主張した「吉野川筋用水在寄申上書」を藩に建白。鮎喰川左岸の堤防を築いた。

豊岡茘暾………1808年、徳島県松茂町の庄屋出身。豊岡干拓で名高い坂東茂兵衛の孫。今切川の治水、利水に功績を残し、明治期「疎鑿迂言」を建白。

松下節也………銅山川分水を計画した伊予三島(愛媛県)の代官。事業が大きすぎて実現はできなかったが、その後の銅山川分水の基礎的構想となる。

大久保●之丞…1849年、香川県財田町出身。四国新道(国道32号)、讃岐鉄道、瀬戸大橋、香川用水などの近代的構想を提唱した明治の先駆者。

井内恭太郎……1854年、徳島県市場町出身。県の役員となり手腕を発揮。麻名用水の完成他、板名用水の建設にも努力。明治、大正期の代表的技術者。

※3 西川治「自然と人間-日本水土考の今昔」(『そしえて21』2月号)


back-page next-page