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01
●七ヶ用水古図。右端の太い川が手取川。他はすべて用水である。(提供:金沢図書館)

手取川扇状地[せんじょうち]―曲率半径十三キロメートル、開角百十度・その規模といい形状の美しさといい、我が国を代表する扇状地のひとつである。(一頁写真参照)

しかし、この地は、鎌倉時代からつい近年にいたるまで、決して歴史に記されることのない“戦場地[せんじょうち]”でもあった。

手取川は、「七たび水路[みずみち]を変えた」という大氾濫[はんらん]川である。しかも、日照りが続けば、もともと痩[や]せた流路はたちまちの内に干上がる。幾百年の間、この地に生まれ死んでいった幾万という農民は、猛[たけ]り狂う手取川の洪水、渇水、水路の普請[ふしん](工事)、水配分との闘いに人生のほとんどを費やしたと言ってもいい。

『手取川七ヶ用水誌』(手取川七ヶ用水土地改良区編)という上下二巻の書物は、中世期から連綿[れんめん]と続くその壮絶な農民の闘いを冷静な記録にとどめた名著である。

その戦果を無理矢理一枚の絵に描けば、図のようになる。


さらに詳しくはこれらの水路から、さながら毛細血管のごとく夥[おびただ]しい数の水路が延びて、手取川扇状地の水田8,000ヘクタールを隈[くま]なく潤[うるお]している。

そして、それらの用水や水門の名称、小字[こあざ]の地名等に多くの開拓の指導者とみられる人名が冠[かん]せられている。

「上川三寸」(三寸でも上流の者が強いという意)といわれた中世期から今に続く厳しい水利の掟[おきて]。太い麻縄[あさなわ](手取川)を一本一本解[ほど]くように村々で奪い合い、分けあってきた息が詰まるような水路の普請。上流、下流、右岸、左岸と何万枚の田に均等に水が行き届くよう配慮された人々の智恵の壮大な蓄積。欲得[よくとく]と慈悲[じひ]、憤怒[ふんぬ]と羞恥[しゅうち]、悲嘆[ひたん]に喜悦[きえつ]、懐古[かいこ]と奮起[ふんき]、あるいは羨望[せんぼう]、憂苦[ゆうく]、屈辱[くつじょく]、呵責[かしゃく]、嫉妬[しっと]、困惑[こんわく]・・、およそ人と人との間で交わされるありとあらゆる感情が幾重[いくえ]にも複雑に絡み合い、均衡[きんこう]しあった動かしがたい水の配分。それらのすべてが、この古い絵図に凝縮[ぎょうしゅく]されている。


そして、飲み水としての清らかさを守り、汚水を一切禁じてきた村々の規律。その水を生む霊峰白山を見るたび掌を合わせて拝んだという農民の美徳・・・。


歴史には記されぬ、いや記されたとしてもいかなる修辞も及ばぬ彼等の闘いこそ、加賀百万石のもうひとつの、しかし、紛[まぎ]れもない正史[せいし]なのである。


02

●それでなくても厳しい日々の百姓仕事に加え、鍬一本で、川の氾濫や水路の普請(工事)と格闘せねばならなかった農民の苦役がどれ程のものだったか、今は知る由もない。右の写真は、明治36年、7つの取入れ口を1ヶ所とする七ヶ用水合口工事の通水式。隧道をほとばしり出る水に、万雷のような歓声がこだましたという。ほとばしり出たのは水だけではなかろう。幾万回と降りおろした鍬の労苦の分だけ、農民の目から熱いものが溢れたに違いない。


03

●七ヶ用水を語る時、枝[えだ]権兵衛の名は外せない。幼少より聡明、17歳にして肝煎[きもいり](村の世話役)となった彼は、水に苦しむ農民の姿に耐えかね、数十年をかけて富樫[とがし]用水の大改造を計画。小山良左衛門の協力を得て、この難工事にとりかかる。幾多の苦難にめげず、全財産を使い果たしての壮挙であった(明治2年完成)。


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