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加賀を創造[たがや]したのは、後世に名を残した人ばかりではない。およそ人の住めるあらゆる場所は、有名無名の偉大なる先人が切り拓いてきたものである。そこでは多かれ少なかれ紙谷用水のような激しいドラマが展開されたであろう。

ここに記した彼等の業績は、一冊の書物になる程の内容を秘めている。さらに、紙面の都合上、50の事例を選んだに過ぎない。また、記載は近代的土木が始まる明治中期、キリがいいところで1900年以前にとどめた。内容はほとんど石川県発行『石川県土地改良史』からの引用である。


01

1・紙谷用水

建設者:鹿野源太郎、西野庄与門

年 代:1869 年

概 要:山中温泉近くの村・神屋谷。庄屋鹿野源太郎は、西野庄与門の協力を得て岩山を掘り抜く水路の難工事を開始 。庄与門の屋敷が焼き討ちにあうなどの辛苦を乗り越え、14 kmに及ぶ用水が完成。4カ村86ha がその益に浴した。今も記念碑が残っている。


2・御水道(おすいどう)用水

建設者:旧大聖寺藩

年 代:1700年前後

概 要:後に灌漑利用したが、最初の目的は藩主の庭園水であったという。大聖寺川を草堰で塞き止め、3 kmに及ぶ水路を建設。灌漑面積は天保期の「志稿」によれば1600 石近くあったらしい。大正初期に山下与三吉らによって改修されたことを示す記念碑が建つ。


3・鹿(しし)力鼻用水

建設者:不明

年  代:1700年前後

概 要:御水道用水と同じ大聖寺川より取水、建設年代もほぽ同じ。伝説では、鹿が取水口の場所を教えてくれたとある 。素掘りの水路は7kmに及び、約200haの水田を潤している。同用水を奉る保賀神社では、毎年9月、初穂、神酒奉納等の神事が継承されている。


4・片野大池のトンネル

建設者:魚屋長兵衛

年  代:1678年

概 要:現在は40 ha近い水田を潤す水源池、カモの飛来する鴨池として名高い。昔この一帯は砂丘が片野川の水を塞き止め、周囲は一面水没した。このため`魚屋長兵衛は延長160 mのトンネルを掘り、水を抜くとともに、水田を拓いた。トンネルは現在も残る。


5・柴山潟干拓

事業者:東出長四郎

年  代:1871年

概  要:7万石の大聖寺藩は財政も窮乏しており、そのしわよせは農民にかかった。柴山潟の干拓には、過去多くの農民が挑んでいる。特筆すべきは、東出長四郎の干拓である。明治·大正の2回にわたって、前潟15haをほとんど干拓。全資産を使い果たしたという。


6・前川逆水門

建設者:二木又吉

年  代:1885年

概 要:加賀三湖とは柴山潟、今江潟、木場潟を指し、それぞれ串川、前川によって結ば れている。降雨時には前川の水が逆流、木場潟周辺に塩害をもたらした。二木又吉親子は、様々な妨害にめげす、10年かけて前川に水門を造りこれを改善した。紀功碑が残っている。


7・市之瀬(いちのせ)用水

建設者:吉田伊織

年 代:1625年

概  要:山代温泉一帯を開墾、辰巳用水と並び称せられる用水。2カ所に長い隧道を持つ約7 kmの水路。1万石近い石高を生んだ。しかし、水争いは絶えることなく、肝煎吉衛門、向出甚平など多くの功績者のドラマも生んでいる。市之瀬神社を守護神として祭る。


8・矢田野用水

建設者:神谷内膳

年 代:1680年

概 要:大聖寺藩の名臣神屋内膳が廣橋五太夫に設計させ、約半年で造らせたという。動橋川より取水、延長約11km 。囚人を 多く投入したといわれ,悲話が残っている。俗に矢田野1万石といわれたが、当初は水量が少なく数十haしか開墾できなかった。


9・軽海(かるみ)用水

建設者:不明

年 代:14 世紀

概 要:小松市の中心を流下する梯川左岸一帯を潤す古い用水。明治中期の記録では、受益面積657 haとある。梯川の水量も安定せす、受益下流部ではクーリクさえ見られた。明治、昭和と改修を重ね、現在、幹線2km強、南北両水路4.5kmとなっている。


10・御茶用水

建設者:不明

年 代:1489年

概 要:度重なる洪水被害に、軽海、荒木田の村は軽海用水から離脱(延徳年間)。能登の宝達山の坑夫を雇い入れ、御殿山の トンネル200mを掘ったと伝えられている。しかし、洪水は軽海用水の取水口に難があり、明治の改修までトラブルが絶えなかった。


11・鍋谷(なべたに)の家立ち開墾

指導者:肝煎庄兵衛

年 代:1842年

概 要:鍋谷村は飢饉の際、白土を食べるほ どの貧しい村。庄兵衛は集落地の水田化を企て全戸数63戸の家屋をすべて山側へ移転させた。工事は厳しい山仕事の合間、早朝と夜に行われ、15年の歳月をかけた。以来、飢饉はまぬがれ、今も供養祭が行われている。


12・長谷(ながたに)の大排水溝

建設者:長田佐兵衛

年 代:1836年

概 要:小松市長谷一帯は低湿地で、大雨のたび冠水。天保の飢饉では野草も食べ尽くしたという。佐兵衛は反対や妨害にもめげす、自費で排水路の建設を実施。人夫賃を使い果たし、自ら土石を運搬する姿に村人も協力し始め、遂に延長約3kmの排水路が完成。


13・明谷(みょうだに)用水

建設者:加藤藤兵衛

年 代:1617年

概  要:白山中腹の山村・白峰村。現在の手取川ダムよりさらに山奥へ入った牛首村は、わすか20石という小さな村であるが、ここにも用水が引かれ。藩制前期の土豪加藤藤兵衛が拓いたとされる明谷用水。碑文には元和3年(1617)とあるが詳しい記録はない。


14・払谷(はらいだに)用水

建設者:三津谷の弥四郎

年  代:1750年

概 要:同じく白山中麓の尾添村。急傾斜の土地と冷涼な気候条件にもかかわらす、水田開発は農民の悲願であった。寛延2年(1749)村の寄合いで本格的水路の建設を決議。弥四郎が取り仕切った。払谷から村まで延長1.6km。完成の経緯は明らかではない。


15・三ヶ用水

建設者:直海屋(業者名)

年  代:元禄期か

概  要:手取川のはるか上流右岸`河内庄3カ村を潤す用水 。工事屋が直海屋であったことから直海屋用水とも称された 。詳細は不明だが、藩制前期の3カ村の石高が元禄6年には177石余増加している。地形から見て至難の工事であったことが窺われる。


16・吉原用水

建設者:吉沢甚右衛門

年  代:1899年

概  要:手取峡谷の景勝地として知られる不老峡、綿ヶ滝。しかし、吉原地区住民のシンボルは吉原用水記功碑であるという。山間の貧しい村、それほど用水への期待は大きかった。村長であった吉沢は辞職後も諦めす、遂に明治32年、着工の運びとなる。


17・手取川七ヶ用水

建設者:流域農民

年 代:平安後期~

概  要:冨樫・郷・中村・山島・大慶寺・中島・新砂川と7つの用水の総称、広大な手取川扇状地を隈なく潤す幹線水路である。その歴史は平安時代にさかのぽる。エ事は百姓の自費。取水口は各用水ともバラバラであり、洪水と渇水を巡る水争いの場でもあった。


18・富樫(とがし)用水大改修

建設者:枝権兵衛、小山良左衛門

年  代:1869年

概 要:氾濫と渇水を繰り返す手取川。七ヶ用水のひとつである富樫用水でも水争いは絶えなかった。権兵衛は数十年かけて調査し、取水口の変更を計画。良左衛門の協力を得て250mの隧道を伴なうこの難工事に着手した。大変な苦難を乗り越えての完成であった。


19・宮竹用水

建設者:手取川左岸の農民

年  代:中世期

概 要:七ヶ用水はすべて手取川右岸。これに対して宮竹用水は、左岸1万3千石の大村を潤す大用水。右岸と左岸は郡境でもあり歴史的な対立・抗争を繰り返してきた。何度も取水口を変更し、明治、昭和と改修を続け、遂に、現在、県下第二の大用水となった。


20・辰巳用水

建設者:板屋兵四郎

年 代:1632年

概 要:三代藩主利常が兵四郎に命じたとあるが、実際には御算用場奉行・稲葉左近が兵四郎を起用したのであろう。日本四大用水のひとつ。同用水により小立野地区に千石以上の村が生まれている。左近と兵四郎のコンピは能登の用水にも名を残している。


21・寺津(てらづ)用水

建設者:田中覚兵衛

年 代:1646年

概 要:辰巳用水から14年後、土清水野の開発で造られた用水である。25カ所に隧道を持ち、水路の総延長も10kmに及ぶ。覚兵衛は浪人ともいう。詳細は不明。この用水は、後に水力発電の水路として利用され、今も灌漑用水、上水道として使用されている。


22・長坂用水

建設者:戸田伊右衛門等

年 代:1671年

概 要:辰巳用水の影響は甚大であり、約40年後にも泉野一帯を潤す長坂用水を生んでいる。隧道、延長とも辰巳・寺津と同規模。戸田等三名の用水奉行による藩直営事業であり、この難工事をわす2年で完成させた点も、辰巳用水への意識が窺われる。


23・柳沢用水

建設者:不明

年 代:寛文年間か

概 要:犀川の支流・平沢川を水源に持ち、台地の上にある中戸、天池の2村約20 haを潤してきた柳沢用水。古い手掘りの隧道が現在も残っているが、資料、口碑の類いはない。寛文10年(1670)の 草高から見て、長坂用水の少し前にできたかと推定される。


24・大野庄用水

建設者:富永佐太郎?

年 代:1573~1592年頃?

概 要:武家屋敷街を流れる大野庄用水は、金沢の観光スポットでもある。用水の歴史は古く、藩祖利家の家臣・富永佐太郎の開さくとある。しかし、詳細は不明。犀川下流 大野庄一帯を潤す古い農業用水を、城下町整備を兼ねて再整備したものであろう。


25・鞍月(くらづき)用水

建設者:油屋与助?

年 代:1644~1648年頃?

概 要:大野庄用水とともに武家屋敷を流れる鞍月用水。戦略・防火・消雪・排水と城下町の重要な役割を果たしてきた。しかし、金沢西北郊外13カ村、8千石を潤す大用水でもあった。油屋の名は、正保年間の一部改修した時のもので用水の創始者ではないともされる。


26・小橋(こばし)用水

建設者:不明

年 代:1688~1703年

概 要:大野庄や鞍月と同じく城下町整備で造られたらしい。犀川ではなく卯辰山山嶺より発し金沢市内を流れる浅野川よりの取水。農業用水としては、浅野川の北側、今の浅野本町地区一帯を潤し、当時で3千石近かったという。現在は水路延長約7.5kmである。


27・河原市(かわらいち)用水

建設者:中橋久左エ門

年 代:1685年

概 要:中橋久左エ門は測量、土木工事に優れていたという。浅田村出身のため、以前は浅田用水とも称した。延長約13km 、関係集落27カ村、面積1,150haに及ぶ大用水である。久左エ門はその後も河北郡や羽昨郡の溜池も多く築造している。功績を称えた記念碑が建っている。


28・上安原(かみやすはら)の耕地整理

事業者:高多久兵衛

年 代:1888年

概 要:明治を代表する篤農家・高多久兵衛は、全国にさきがけて耕地整理を実行したことで名高い。暴挙との非難を受けながら、久兵衛の全責任において実行。全国に計り知れない影響を及ぽした。この方式は石川式と呼ばれ、現在の圃場整備の元となった。


29・銭五開き

事業者:銭屋五兵衛

年 代:1849年

概 要:「海の百万石」と謳われた加賀一の豪商・銭屋五兵衛。彼が託した最後の夢は、河北潟の干拓であった。総予定高4,600 石、20年に及ぶ大事業。しかし、潟に魚が浮かんだことから、藩を巻込む疑獄事件に発展。最期は牢死。一族も悲惨な結末を迎えた。


30・川尻用水

建設者:不明

年 代:1859年

概 要:川尻用水は、季節だけの使用にとどめていた津幡川の土堰を常設化したものである。この処置をめぐっては、洪水のたび被害が出る川上の津幡村と、昭和45 年の大改修まで激しい抗争を繰り返した。現在も水利権は近世以来の慣行に従っているという。


31・長柄(ながら)用水

建設者:桜井兵平衛

年 代:1717年

概 要:長柄野の眼下を流れる大海川。しかしこの台地に水は無い。兵平衛の計画に村人はたじろいだ。隧道やサイフォン、溜池の利用、盛土居など現代の技術者も驚く技法が取入れられている。この用水を父子7代にわたって守り続けてきた家があるという。


32・八ヶ用水

建設者:八ヶ村江組

年 代:1624年

概 要:古来、新宮川水系に生きてきた8つの村々、古くは八ヶ村用水と称した。現在でもその結束は固いという。用水の規模よりも、驚かされるのは、1624年に八ヶ村の「江組」で協定され、現在も生きているという厳しい分水規定(水利権協議)である。


33・蠣(かき)が浦用水路

建設者:浜岡弥三兵衛ら

年 代:1850年

概 要:七尾市の和倉温泉駅周辺は、江戸末期まで「蠣が浦」と呼ばれる海であった。その 海を約 17ha埋立て、山を隔てた舟尾川から用水路を引いてきたのが、加賀有数の豪商・浜岡弥三兵衛である。水路は、ゲートによる複雑な引水構造を持っていた。


34・春日用水

建設者:板屋兵四郎

年 代:1625年頃?

概 要:輪島市域で、最も水に苦しんだのは地形的に見て鵠巣地区と考えられる。この地区の古文書に兵四郎の名が記されており、鵠巣の稲舟台地を潤す春日用水を造ったとある。等高線に沿った約1/200の緩やかな勾配に、兵四郎らしい技術が見られる。


35・尾山用水

建設者:板屋兵四郎

年 代:1625年頃?

概 要:奥能登にそびえる高洲山。その急斜面が日本海になだれ込む手前に、打越の村はある。ここにも立派な用水がある。山中の小さな滝に水源を求め、急斜面の杉林を緩やかに流れて尾山へ出、さらに三方に分かれ打越の集落を潤す。古書にやはり兵四郎の名がある。


36・大江用水

建設者:稲舟村助八

年 代:1723年

概 要:打越の隣、惣領というゆかしい名を持つ 集落は、高洲山の束を流れる深見川か ら大江用水を築き、尾山用水から離脱した。延長7km。以来、樋ノロ山の木を切ろうとする惣領地区と、尾山用水の水源林を守ろうとする打越地区との争いが明治まで続いた。


37・千枚田

建設者:稲葉左近、板屋兵四郎

年 代:1627~1632年頃より

概 要:経済官僚として前田家三代利常に仕えた稲葉左近は、寛永年間、奥能登の開発に力を入れている。白米の千枚田で有名な南志見地区の棚田群も左近の命によるものらしい。千枚田に用水は不可欠。左近と兵四郎のコンビが、後世に絶大な財産を残した。


38・金蔵(かなくら)保生地

建設者:井池伊三郎

年 代:1868年

概 要:雨乞いを年中行事にまで数えていたという輪島市金蔵地区。流血を伴なう水争いも起こっている。肝煎であった井池伊三郎は、山中に 7万㎥の保生池を築き ここから約200 mのトンネルで金蔵地区まで水を運ぷ工事を断行。約2年で完成させた。


39・ニ宮川の改修

事業者:平松伊兵衛

年 代:1750年頃

概 要:七尾市の西端、三階地区は二宮川を挟んで西三階と東三階に分かれている。織田信長の頃の領地境が今日の地名に残っている。その東三階の給人であったという平松伊兵衛は、同地区を流れる二宮川を改修し、盤若野前の水溜りを水田化したといわれている。


40・うるし沢溜池

建設者:北村平内

年 代:1679年

概 要:昔、西三階は「源五三階」と呼ばれていたという。歴代の十村・北村源五に由来する。五代目源五の北村平内は後藤山うるし沢の谷を塞き止め、15,000㎡の溜池を築いた。堤高6m、堤長240m。堤の中心部に粘土壁を用いる近代的工法は驚異的である。


41・飯山(いいやま)川「川流し」

事業者:吉野屋村の彦助

年 代:1663年

概 要:新田開発に関して特筆されるのは「川流し」という技法、今でいう流水客土である。吉野屋村の彦助は、飯山川を東折させ上流の神子原菅池より土砂を崩して、千石に及ぶ新田を開発したという。この手法は、邑知潟干拓に大きな影響を及ぽした。


42・猪(い)の谷池

建設者:椎名道三

年 代:1841年

概 要:志加浦台地周辺は、昔より大小様々な溜池が造られてきたが、水不足は深刻であった。農民の悲願により、越中の十二貫野用水で卓越した技量を発揮した椎名道三が呼ばれる。幾つかの溜池を隧道で結び効率的運用を図るという画期的な工事を成し遂げた。


43・村井新村の流し開き

事業者:水内六左衛門

年 代:1724年

概 要:「川流し」の手法は、手取川扇状地でも行われた。六左衛門は現松任市徳光一帯の海岸砂丘開発のため、高さ1 尺程の水路を築いて水を張り、その水勢によって砂丘の砂を海に流した 。その方法によって、10 年間に750石の村井新村を誕生させた。


44・邑知潟(おうちがた)吉崎新開

事業者:吉崎村百姓32人

年 代:1843年

概 要:邑知潟南岸の吉崎村では古くから積極的な干拓がなされていた。吉野屋村の彦助による流水客土の手法が大きな影認を与えたと見られ、延宝7年(1679)の古文書に干拓に伴なう訴訟が残されている。天保14年、農民の干拓が実り、吉崎新村が誕生した。


45・幻の全面埋立計画

計画者:道下村丹治、村松標左衛門

年 代:1817年、1834 年

概 要:道下村丹治による邑知潟の全面埋立計画には藩も食指を動かしたがあまりに奇想天外であり、計画倒れに終わる。羽咋市歴史民俗資料館にこの図面が残されている。その後も、豪農・村松標左衛門が同様な計画を立て、昭和の国営干拓事業に受け継がれた。


46・福野潟の埋立

事業者:助太夫家

年 代:1577年頃より

概 要:「潟の主」ともいわれた千石百姓・助太夫家。代々、福野潟を埋立てて田畑を増やしてきた。実際千石に近い持高があったという。しかし、埋立地は低湿地であり、田舟による農業は大変であった。助太夫家は土地の重鎮であり於古川の改修なども行っている。


47・久左エ門の溜池群

建設者:中橋久左エ門

年 代:1724年より

概 要:河原市用水で功績を立てた中橋久左エ門は、今度は水に苦しむ邑智平野へ赴任。吉崎川に杉野屋提、飯山川に藪野堤、志雄町の山中に菅原堤、柳田堤を築造するという大事業を成し遂げている。今もこの偉人の出身地浅田では法要が営まれているという。


48・モクザン堤

建設者:滝村の杢左衛門

年 代:1624年

概 要:羽咋市芝垣町、国立能登青年の家の東にあるモクザン堤の名は、滝村の百姓・杢左衛門(もくざえもん)に由来する。この堤によって海岸段丘の開発が可能になったが、今は住む人もないらしい。同地にある彼の顕彰碑によれば、寛文年間に溜池を築造したとあるが、詳細は不明。


49・馬飛(まんとべ)池

建設者:北村政右エ門

年 代:1854年

概 要:265,000㎥という奥能登随一の貯水量を誇る馬飛池は、驚くべきことに曲線状の堤を持つ。建設の功労者は当時の十村・北村政右エ門とされるが、技術面を担当した磯部某が卓越した技術力を持っていたという。いすれも詳細は不明である。


50・雁(がん)ノ池

建設者:黒川五郎左衛門

年 代:1704年

概 要:珠洲市の北東、三崎町にある雁ノ池は、貯水量161,000㎥の大溜池。水量が豊冨であり、この地には珍しく過去、水争いがなかったという。また、2つの流域に分かれて潤しているのも興味深い。建設功労者、黒川五郎左衛門は御郡奉行であったらしい。


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