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扇状地である胆沢の大地を開発するためには、山を穿ち、谷をくぐり、河川から水を引いてくることが必要であった。

胆沢の地の開田への執念は、先人たちの知恵を結集させ、穴山用水堰、葦名堰を造成した。機械施工の発達していなかった時代に、当時の技術を駆使して、人力で測量し、水路を掘った。驚異の農業土木技術である。


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穴山用水堰

穴山用水堰は、茂井羅堰、寿安堰の上流に位置し、胆沢川の断崖に取水口を設け、前沢の白鳥に導く堰である。その長さは総延長18,084 メートルで、内、穴堰(ずい道)は2,759メートル、幅は1.2~3メートルで腰をかがめてやっと通れるぐらいの大きさである。岩盤の中でも砂礫が堆積しているような柔らかな部分を曲がりながらも掘り進んだが、この穴堰の壁面には、「たがね」の痕跡が今でもはっきりと残り、所々には明りを取るために菜種油を灯した半皿状の窪みがついているという。

「たがね」の一振り一振りが水を求める心の叫びであった。長い年月と多くの労働者を必要とし、また、犠牲者も多くだしたであろう「ずい道」であるが、いつの時代に、誰が造ったものか一切が謎に包まれて解明の糸口さえつかめない。一説には、今から約770年前、藤原秀衡の家臣、照井三郎によって開さくされたものともいわれている。


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穴山用水堰絵図

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葦名堰

葦名堰は、胆沢扇状地の南側に接する衣川村の北股川に水源を求め、後藤寿安が寿安堰の工事に着手したといわれる元和4年(1618)に、衣川荘の領主であった葦名氏が小山の二の台を開発するため、5代、51年の歳月を重ねて開さくした延長24,140メートルの水路である。この内、穴堰は15か所で5,530メートルに達する。


用水路は扇状地の段丘面からおよそ数十メートル下の浮石質凝灰岩を掘り進み、穴堰と平堰(開水路)を交互に配置しながら、狭間[さま](狭い所)、瀧・井戸(川、谷の底を横断するサイフォン)、樋[とい]などを造成し、勾配差などの地形を巧みに利用して、北股川の水を二の台に引いた。当時の農業土木の技術の粋を結集した水路である。

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葦名堰の井戸(サイホン)断面図

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