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石淵ダム 02
若柳地点流量と取水量

絶対的な用水不足の解消を目指すとともに、頻発する水害からの軽減を図るため、我が国初のロックフィルダムである石淵ダムが昭和28年に築造され、約1,200万トンのかんがい用水が確保された。広大な胆沢平野を潤す、まさに恵みの水がめとなった。


胆沢平野小唄に『照れば旱魃[かんばつ]曇れば出水[でみず]それも昔の語り草 見やれ自慢の石淵ダムは伸びる胆沢の底力』と唄われており、農民の喜びがひしひしと伝わってくる。


昭和32年には農民の悲願であった茂井羅堰と寿安堰の取水口を統合し、両堰の円滑な水利調整を図るため、国営胆沢川農業水利事業によって当時としては画期的な構造を誇る円筒分水工が完成する。



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円筒分水工

この石淵ダムと円筒分水工によって配られた水により、茂井羅堰と寿安堰がかりの人々の水争いは解消した。

しかし、開田の進展、営農形態の変化により広大な胆沢平野を潤すにはなお用水不足があることから、現在、進められている石淵ダムの10倍以上の容量を誇る胆沢ダムにその用水を求めるとともに、これに呼応して、国営胆沢平野農業水利事業によって一回り大きい円筒分水工も完成した。

十数年後には水不足と水利調整の数百年に及ぶ闘いは完全に解決されることとなる。


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第二次世界大戦後、国民の食料増産確保が緊急の課題であった昭和22年にはカスリーン台風、そして昭和23年にはアイオン台風と連続して大風水害に見舞われ、用水の取入れ口及び各水路は延54キロメートル余りにわたり原形を止めないまでの壊滅的打撃を受けた。加えて、翌昭和24年には一転して大旱ばつとなるなど、3年連続して米の収穫は皆無となった。

このような状況の中、国は国土総合開発の一大国策を掲げ、国民の食料安定供給を目指すための諸施策の強力な展開を図るため、昭和24年に土地改良法を制定した。

法の制定を受けて、昭和25年、胆沢平野地域では茂井羅堰と寿安堰の両水利組合を胆沢平野土地改良区に組織替えし、ここに県下最大の土地改良区が誕生した。


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