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これまで述べてきた茂井羅堰、寿安堰、穴山用水堰、葦名堰という歴史ある農業用水は、それぞれの時代に、胆沢平野のそれぞれの場所に、水田を拓き、水田を潤してきた。


しかし、胆沢平野にも最後まで水田を拓くことができずにいた土地があった。胆沢平野の南の端、胆沢扇状地のもっとも高い段丘上である。薪炭林と茅場とわずかの畑しかなかったこの土地は、戦後の開拓によってまず畑が拓かれた。しかし、畑の生産性は低く、入植者は不安定な農業経営に悩まされた。水田が欲しくても、胆沢川からもっとも遠いこの土地に、十分な用水を引くだけの水は、もはや胆沢川に残されていなかった。


この高台の土地に待望の水を運ぶことを可能としたのが、先に述べた石淵ダムである。昭和31年(1956)から7ヵ年にわたる国営胆沢開拓建設事業を経て、ダムの水は910ヘクタールの水田を生み出した。同時に開墾された822ヘクタールの畑地と合せて1,732ヘクタールの農地が、入植者287戸、増反者1,242戸に配分された。入植者の生活は飛躍的に安定した。


ここに胆沢平野の最後の水田が拓かれた。1500年以上をかけた胆沢平野の用水開発の歴史が完結の時を迎えたのである。時は、昭和38年(1963)、東京オリンピックの前年のことであった。


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粟野善知翁の碑※
彼は明治36年(1903)から39年(1906)にかけて岩手県初の耕地整理を行った先覚者である。

水田は水稲を栽培するために造られた巧妙な装置である。

水を貯めるためには畔を築かなければならない。それも一様に貯めるために田面を均平にしなければならない。そして、はるか上流の川から延々と水路を築き、用水を引かなければならない。

このように、装置としての水田は、営農技術の進歩や農業経営の変化とともに、絶えず改良され、進化を続けてきた。


稲を育てるのに、かつては人の手だけを用いた。

ほどなく牛や馬の力を借りるようになった。

そして、ついには機械が牛や馬に取って代わった。

労働手段の発達につれて、装置としての水田の構造も大いに変わった。


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当初の水田は地形に合せて小さくて不揃いだった。自分の田んぼに行くには畔を伝えばよかったから農道は要らなかった。用水は上流の田から下流の田へ順番にかけた。だから水路もうんと少なかった。人の手で稲を作る時代にはそれで済んだ。


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牛や馬を使うようになると、より広くて長方形の区画が望まれた。自分の田んぼに牛や馬を入れるために専用の農道も必要になった。自分の好きな時に水を引いたり落としたりできるように、専用の水路も欲しくなった。だから、みんなで力を合せて圃場整備(区画整理)を行った。当時の標準的な水田は10アール区画であった。


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農業機械が普及し、性能が上がるにつれて、機械の作業効率を上げるために、さらに広い区画が必要となった。農道の幅も広くなくてはならなかった。収穫の時に機械がもぐらないように田面を早く乾かす必要も生じた。だから排水路をより深く掘り、暗渠も入れるようになった。この時代、30アール区画を標準とする圃場整備が全国で盛んに行われた。


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現在、農業の担い手は、大規模農家や営農組織に急速に移りつつある。彼らの時代には、乗用の大型農業機械が当たり前になり、1ヘクタールを超えるような大区画水田があちこちに見られるようになるだろう。

大区画水田では、大面積を均平にするためにレーザー装置を備えたブルドーザーが用いられる。用水路はパイプラインになり、バルブの操作一つで用水がかけられる。水田の水位を一定に保つような自動給水栓も開発されている。また、排水路を地下に埋設することによって、水田をより広く使える工夫も考案されている。


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