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山は聖地であり、神はそこから里にくだり、ふたたび山に帰ってゆく。

胆沢平野の人々はそう考えてきた。


01
於呂閉志神社 02
水口にユキツバキの小枝

沢川上流の猿岩の山頂付近にある於呂閉志[おろへし]神社の旧社は奥の宮と呼ばれ、古く、里人から祟拝されてきた。

年越しの日、猿岩山麓の下嵐江[おろせ]の人々は、稲束を本社に運びあげて五穀の豊作を祈る。春、神は里におりてくる。祭日、里人は猿岩から持ち帰った「ユキツバキ」の小枝を青竹に挟み、苗代の水口に刺しこんで水神とする。秋の祭日、里人は御初穂として玄米を神前にそなえ、籾殻を焼いて翌年の豊作を祈る。そして神は山に帰る。

神に対する祈りは五殻豊饒だけではない。作物の虫除け、雨乞い、雨晴らしから馬の守りにいたるまで、さまざまであった。

胆沢の地は神やどる大地であった。


菅江真澄[すがえますみ]は三河の人である。秋田領を本拠地にして各地をめぐり歩き、人々の生活習慣や民俗を観察している。

胆沢の地には天明5~8年(1785~1788)に訪れ、小山村徳岡(現在の胆沢町内)で肝入を務める村上良知家や六日入村(現在の前沢町内)で大肝入を務める鈴木常雄家に滞在している。


「菅江真澄遊覧記」の「かすむこまがた」は、この地方の正月や小正月の民俗行事について、暖かいまなざしのもとに書き記している。

「出[いで]て酌[さく]とれ稲倉魂[おかのかみ]」「飲[のめ]や大黒[だいこく]、謡[うた]へやえびす」と歌う人、若水で墨をすって書をしたためる人、馬につける銭をとおした松の小枝を年始客からもらう子供、蓑・笠をまとい木貝[ほらがい]を吹いて「カセドリ」に歩く若者、掌の白粉を人につけあう「花かけ」に興じる若い男女、その他、鳥追いや田植踊、七草や黄金餅の食習慣などなど。



真澄は天明6年(1786)、奴田植[やっこたうえ]や早乙女田植[さおとめたうえ]などの田植踊も見ている。

この踊りは笛を吹き、鼓や銭太鼓をうちならし、仮面をつけた男を中心におもしろおかしく踊るものであり、今に引きつがれている。今に伝わる田植踊は、一年間の農作業のようすを踊りにした庭田植と、田植えそのものを踊りにした座敷田植などがあり、いずれも正月にその年の豊作を祈る。

昭和の初めまで、1組15~16人のグループが踊りを統率する庭元の家に集まって踊り始めを行い、小正月の15・16・17日に村内外を門打[かどかけ]してめぐり歩いていた。

  • 04
    円筒分水工のある徳水園では、毎年4月下旬には関係者によって放水式が行われ、地区内に伝わる神楽が奉納される。
  • 05
    水沢農業高校の田植競争は、毎年5月中旬、地域農民の参加を得て開かれる。応援合戦もはなやかである。


06
毎年2月に胆沢町内で「全日本農はだての集い」が開かれ地元町内から「都鳥[とどり]田植踊」と「出店[でだな]田植踊」(都鳥と出店は地名)が披露される。「農はだて」とは農作業はじめのことをいい、当地方の年中行事のひとつである。

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