トップページに戻る 疏通千里・利沢万世 ふたつの王国 共存社会を目指して 新しいアジェンダ 工業化社会への轍 安城ガ原と七柱の神 手造りの大地 入鹿池 輪中と歴史的用水 木曽川と尾張藩御囲堤 動かざるための技術 疏通千里・利沢万世
第1章 木曽川と尾張藩御囲堤 御囲堤の跡(提供:建設省)
 愛知、といってもこの地は藩政期、2つの国に分かれている。尾張と三河。両国は水系も違えば、その風土、気質も異なる。ともあれ、愛知といえば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三英傑と生んだ地として名高い。
 戦国の大名は、軍事のみならず、農業土木においても才能が求められた。群雄割拠[ぐんゆうかっきょ]していた当時、国を富ますとは、水を治め、田畑を開墾[かいこん]することでもあったからである。
 信長、秀吉、家康とも彼ら自信が優れた土木感覚の持ち主であり、またその家臣にも多くの卓越した土木技術者を輩出している。
 加藤清正、福島正則、前田利家、蜂須賀正勝、池田輝政・・・、豊臣政権を支えた武将の大半が尾張出身者であり、徳川政権樹立後の元禄期、全国の大名243家のうち123家は尾張、三河の出身者が占めている。江戸期に日本の耕地面積が急増していることを見ても、この地の出身者が日本の国土形成において果たした役割は計り知れない*1
 このことは逆に、尾張や三河の地が、いかに治めにくい土地であったかを物語っているのではあるまいか。とりわけ、尾張は木曽川の氾濫に苦しんだ。信長は、農よりも交易地であった津島の商に目をつけ富を蓄えるとともに、兵農分離によって軍を増強した。美濃を討つと美濃に居を移し、京を制圧して安土に城を築いた。秀吉もまた、京、桃山、大阪と関西の地に本拠を置いた。いずれも、結果的には尾張を離れている*2
 
 木曽川は、深い木曽山中の雨水を一筋に集め、途中、飛騨の広い流域を持つ飛騨川と合流する日本有数の大河である。深い谷間をえぐって大量の水を運ぶが、この川は両山脈が果てる犬山の地で一挙に解放される。したがって、尾張平野の扇状地は木曽川河口から50kmも上流、愛知県の北端、犬山市周辺である。その南に広がる広大な現在の市街地は、河道さえ定かならぬ自然堤防地、砂州、三角州平野であった。その三角州平野の途切れるあたりが、序章で述べた鎌倉時代の海岸線*3
 中世までの木曽川は、大雨のたびに流れを変える暴れ川であり、尾張平野には、ちょうどまばらになった竹箒[たけぼうき]のように幾筋もの派流(木曽7流ともいわれた)が流れていたらしい。
 
 尾張を、後の尾張たらしめたのは家康である。家康は、豊臣に対する軍事上の要塞として尾張を重視し、九男義直を尾張に配置した。当時、この地の中心であった清洲を町ごと移動させ、名古屋の熱田大地に巨大な城とその城下町を建設させた。有名な「清洲越し」。
 その直前、1608〜1609年におこなった大工事が木曽川の固定、左岸に築かれた巨大な堤防であった。世に言う「御囲堤」*4
 文字通り、尾張の地をぐるりと取り囲む長大な堤。当時としては、日本最大規模の<動かざるための技術>であった。ために、尾張の水事情は一変することとなり、その後、約350年の長きにわたってこの地の“水と大地”を縛り続けるのである。

木曽川改修前の下流平地
出典:「木曽川水系農業水利誌」
出典:「木曽川水系農業水利誌」


*1 日本の耕地面積は、平安から室町時代まで90万ha前後で推移してきたが、江戸中期には300万haにまで急増している。
*2 ただし、秀吉は、木曽川の大改修を行っている。木曽川は、天正14年(1586)の大洪水で大きく流れを変え、その8年後の文禄3年(1594)、秀吉は新しい河道を幹線流路とする大規模な工事を行った。木曽川という名称もこの頃からであるという。
*3 興味深いことに、この海岸線は旧東海道のラインとほぼ一致している。
*4 堤は、現在の犬山市から、当時の河口であった弥富まで延長48km(一説では40km)におよび、高さ9〜15m、幅は場所によって18〜54m。要所は二重、三重にするという堅固さであった。美濃側から見るとまるで要塞のようであったらしい。
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