トップページに戻る 疏通千里・利沢万世 ふたつの王国 共存社会を目指して 新しいアジェンダ 工業化社会への轍 安城ガ原と七柱の神 手造りの大地 入鹿池 輪中と歴史的用水 木曽川と尾張藩御囲堤 動かざるための技術 疏通千里・利沢万世
3章 入鹿池 入鹿池
 愛知県に全国で1,2位を競う溜め池がある、と聞けば他県の人は驚くかもしれない。全国一といえば、人は香川県の満濃池を思い浮かべるであろうが、その満濃池と貯水量で匹敵する溜め池が「入鹿池*1」(愛知県犬山市)。明治時代の歴史的建造物を集めたテーマパーク・明治村の隣にあり、観光地としても美しい景観を提供している。
 入鹿池は、江崎善左衛門らの通称「六人衆」が尾張藩の許可を得て工事に着手。寛永5年(1628)のことである*2
 御囲堤の築造後、20年。平野は「宮田用水」で水が引けても、標高の高い犬山の扇状地を潤すとすれば、その上に巨大な溜め池を造るより方法はない。彼らは、小さな川が流れ込む入鹿村に目をつけた。
 それにしても、と現代の私たちは驚かざるを得ない。入鹿池は確かに三方を山に囲まれているが、丘陵地程度の低い山に過ぎない。残り一方を締め切る堤の長さは約百間(180m)。とても溜[た]め池を造るような地形とも思えないが、あえて造るとすればここしかないという絶妙の地である。
 たとえ罪人であっても工事に参加すればその罪を許すという条件で、労働力を確保したと記録にある。「六人衆」は戦国浪人であったといわれている。
 秀吉は有名な備中[びっちゅう]高松城の水攻めで、城のあった平野全域を水没させている。「六人衆」が戦国浪人であったとすれば、この戦[いくさ]の実際を知っていたのではなかろうか。いずれにせよ、<動かざるための技術>の驚嘆すべき水準の高さ。
 「六人衆」は、その後も、前述した「木津用水」を開削している。御囲堤に伴なう用水の建設やこの入鹿池の新田開発により、尾張藩は約8万石の増加となったという。まったく無名の戦国浪人ですら、優に小大名並みの石高を生み出している。一章で述べたように、この地における農業土木の高いセンスを物語っているといえよう。

入鹿池の記念碑


*1 入鹿池は、満水面積152.1ha、貯水量約1520m3。溜め池としては、四国の満濃池(満水面積140ha、貯水量1540万m3)と並んで全国トップクラスである。
*2 奇しくも、この年は高松藩主による満濃池再築と一致している。入鹿池および入鹿用水の完成は寛永10年(1663)。
この章の始めへ
前の章へ 次の章へ