トップページに戻る 疏通千里・利沢万世 ふたつの王国 共存社会を目指して 新しいアジェンダ 工業化社会への轍 安城ガ原と七柱の神 手造りの大地 入鹿池 輪中と歴史的用水 木曽川と尾張藩御囲堤 動かざるための技術 疏通千里・利沢万世
第5章 安城ガ原と七柱の神 明治用水旧堰堤
 さて、愛知のもう一つの旧国、三河に目を向けてみよう。
 藩政期、尾張62万石に対して、三河は2倍近い面積を持ちながら小藩、旗本領と入り乱れ、全藩かき集めても石高はその半分。大地が多い上、小大名では、とても尾張藩のような大工事はできない*1
 しかし、家康を生み、全国の大名の1/3以上を輩出したこの地の人間が凡庸であろうはずもない。すでに室町時代の永禄10年(1567)、東三河では、豊川から取水する「松原用水」*2を建設している。松原用水は430年を経た今もなお、現役であり続けている。
 また、豊川沿いに「鎧堤[よろいづつみ]の存在を示す古書(1604年)もある。鎧堤は、鎧のように不連続、かつ二重三重と重ねる形で築造されており、後の霞堤[かすみてい](洪水時、被害の少ない場所に水を逆流させ、水勢を弱める機能を持った堤防)の秀逸な技術がすでに見られる。
 西三河の矢作川では、慶長10年(1605)、新川の開削が行われ、それに伴う用水の建設や新田開発も盛んとなっている。
 しかし、三河人の真の力が発揮されるのは、むしろ幕藩体制という手枷足枷[てかせあしかせ]が解放される明治以降である。
 
 三河の安城ガ原、五カ野が原*3−矢作川右岸に広がる広大な大地である。キツネしか住まないというこの地は茫漠たる原野、焚き木や下草の肥料を求める入会地[いりあいち]であった。
 時代は下がって江戸末期、1万ha近いこの荒野に水を引こうとした傑物がいる。
 都築弥厚[つづきやこう]。酒造を営む富豪であった。計画は、矢作川の上流船戸村(現豊田市)から取水して、延長約30kmの水路を通しこの大地を潤すというもの。現代の農業水利事業にも引けを取らないスケールである。予定収穫高は5万石。
 しかし、洪水の心配や入会地がなくなるということで地元の反対は根強かった*4。天保4年(1833)、幕府の許可は得たものの、地元の反対は激しさを増す。「弥厚ギツネにばかされて、川は掘っても、水はコンコン」。失意の中で、彼は病没。莫大な財産をすべて失って、なお借財は現在のお金で50億円ほどあったらしい。
 彼の計画は挫折したが、明治になって岡本兵松[ひょうまつ]、伊豫田[いよだ]与八郎らによって蘇ることになる。そして、遂に明治13年(1880)、この歴史的大事業、「明治用水」*5は完成を見る。
明治川神社
 明治用水は、作物すら実らない原野を、後に「日本のデンマーク」*6と呼ばれる沃野に変え、全国の賞賛を集めることになった。
 広大かつ荘厳なる明治川神社には、都築弥厚、岡本兵松、伊豫田与八郎ら7柱*7が“神”として祭られている。これら“7柱の神”は、後の愛知に、そして戦後の日本に、大きな奇特を現すことになる*8

*1 御囲堤は、三河との国境をなす境川にも造られていた。大水のたびに三河側に氾濫し、大量の土砂を運んで、逢妻川の逆流を引き起こしたと古書にはある。
*2 松原用水は、永禄10年、吉田城主酒井忠次により着手されたと伝えられており、半ば伝説化した8人の義士物語も残っている。当時、橋尾村(現宝飯群一宮町)にあった井堰は、度重なる洪水で日下部村、松原村(同一宮町)と位置を変え、苦闘の歴史を刻んできた歴史的用水。現在は、明治27年(1894)に開削された牟呂用水と取水口が統合され、牟呂松原頭首工となっている。
*3 野原と一般には言うが、古い日本語では、“野”と“原”の意味は違った。“野”が単なる未開地を指すのに対して、“原”は水が乏しく農業もできない大地のことを指した。
*4 彼は算学者石川喜平の協力を得たが、農民の妨害を避け、夜中、火縄や提灯で測量した。また、杭を打っても抜かれてしまうので、綿やソバの種子をまき、発芽した場所をポイントにしたという。命がけの測量であった。
*5 明治用水は、都築翁が没して後30年、岡本兵松、伊豫田与八郎がそれぞれ独自に立てていた計画を合体させ、紆余曲折を経てまとまった。矢作川沿いの水源町(豊田市)より取水、大きくは4方向に分かれ、安城市、岡崎、豊田、知立、刈谷、高浜、碧南、西尾の8市、約7,000haを潤す。幹線水路、基幹水路を合計すると約430kmという大用水である。
*6 安城市一帯は、明治用水を得て、米麦二毛作に加え、養鶏、畜産など多角的な農業経営と産業組合による共同販売によって発展。大正末ごろから<日本のデンマーク>として全国に名を馳せ、最盛期には、駅前に連日の視察客目当ての旅館、食堂、演芸場、映画館などがズラリと並んでいたという。同時に農林学校や農事試験場などの農業指導機関が置かれ、日本のモデル農村として教科書にも載った。
*7 祭神としてこのちほうで古くから敬われてきた水の神3柱に加え、都築弥厚命、岡本兵松命、伊豫田与八郎命、西沢真蔵命の計7柱が祭られている。
*8 後述する愛知用水の生みの親といわれる久野庄太郎、豊川用水の近藤寿市郎。2人はともに幼い頃から明治用水の成功を見聞きし、刺激を受けている。おそらく、この明治川神社に何度も祈願したであろう。両用水が、戦後の日本に与えた影響は莫大であり、経済大国日本のルーツをたどれば、その奥底に明治用水がキラリと輝いているはずである。
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