トップページに戻る 疏通千里・利沢万世 ふたつの王国 共存社会を目指して 新しいアジェンダ 工業化社会への轍 安城ガ原と七柱の神 手造りの大地 入鹿池 輪中と歴史的用水 木曽川と尾張藩御囲堤 動かざるための技術 疏通千里・利沢万世
第6章 工業化社会への轍 木曽三川河口周辺
 藩政期、10数世代にわたって尾張の農民が緊迫した水秩序を築き上げてきたことはすでに述べた。この時代まで、水の使用は基本的には農業だけであった。人々の飲料水は井戸でまかなえたし、水運、木材の流送、あるいは漁業などの川の利用も、水を消費するものではなかった。したがって、この愛知に限らず日本の国土および水利用の体系は、城下町の建設も含めて、稲作つまり水田を中心に築かれてきたといっても過言ではなかろう。
 しかし、日本の約2000年におよぶ水田の水秩序に大きな異変がもたらされたのは、明治以降である。この異変は、深く静かに地下水脈から、そして上流からも侵攻してきた。

 明治の文明開化は、産業の開花でもあった。身分や農地の呪縛から解放された人々は、こぞって産業革命の強い西風に帆を揚げた。
 水は、農業のみならず、あらゆる産業の源。明治から大正時代に入ると、一宮市を中心とする毛織物業が木曽川の水を利用して発展、全国生産の4割を占めるという一大繊維地帯を築くことになる。また、当時、名古屋の職工であった豊田佐吉*1は明治30年(1897)、豊田式動力織機を発明。繊維王国の建設に拍車をかけた。
 やがて、満州事変や2度にわたる世界大戦の軍需、さらに朝鮮戦争の特需などを契機に、この地域は重機械、重化学工業地帯として不動の地位を築く。日本の真ん中という立地条件に加えて、容易かつ大量に求められる木曽川水系の地下水(しかも、この豊富な地下水は、尾張の広大な水田が涵養したもの)が、工業王国への轍[わだち]を切り拓[ひら]いたことになる。
 工場の建設は、周辺の宅地化や団地の形状、つまり人口増加と都市の膨張をもたらす。工業用水に生活用水。地下水の汲み上げは、やがて膨大な量になっていった。

 時代の追い風は、上流からも吹いてきた。新しい産業の開花を支えたのは発電。火力、あるいは小さな支流から始まった発電事業も、工業化社会の先駆的役割を担いながら次第に巨大化していく。とりわけ木曽川水系の急峻な地形と豊富な水は水力発電に適していた。発電ダムの建設ラッシュが始まる。

 しかし、山村の林業は発電ダムの建設により、川を利用した流送の手段を絶たれた。水源涵養を支えた山林業は衰退し、山は荒れ始める*2。さらに、発電ダムの水利用は、下流の水利に対して大きな影響を及ぼすこともあった。
 下流農民との利害調整には長い年月を費やし、木曽川では、全国で初めてという逆調整池・今渡[いまわたり]ダム*3も生んでいる(昭和14年)。

 もともと砂州や三角州を農民が干拓してきた尾張の大地。地下水を吸い上げれば、土地は沈下する*4。広域にわたって1mもの地盤沈下が発生するという大変な事態が起こった。

 数100年にわたって営々と築き上げられてきた複雑かつ緊密な水秩序のバランスが、わずか数10年の工業化で根底から崩れてしまったのである。

主要な水準点の変動状況(尾張地区)
出典:平成9年度地盤沈下調査 結果概要(愛知県)
出典:平成9年度地盤沈下調査 結果概要(愛知県)

 高度経済成長期の前夜、その台風はやってきた。一夜にして鎌倉時代の海岸線を現出させたという伊勢湾台風である。愛知、三重の死者・行方不明者は4,728名。 前述したが、江戸時代、尾張の干拓面積は約50km2。しかし、この台風で判明した海抜ゼロメートル以下の地域は、実に186km2に広がっていたのである*5。 この台風が契機となって、本格的な地盤沈下調査が開始され、地下水の採取規制、代替水源の確保等の地盤沈下対策が進められた。しかし、沈下が沈静化し始めたのは昭和50年代、木曽川用水事業である馬飼頭首工[まがいとうしゅこう]*6の建設(地下水汲み上げの代わりに木曽川用水を使用)を待たねばならなかったのである。
 沈んだ大地はもう戻らない。二度と踏んではならぬ轍[わだち]でもあった*7

*1 言うまでもなく、トヨタ自動車の始祖。
*2 当時、まだ山村への道路は細く、トラックもなかった。木曽川に限らず、発電ダムの建設は、各地で森林業者との調整に難航している。
*3 発電ダムは、電力の需要に応じて発電する(水を流す)ため、河川の流量は変動が激しく、発電しないときには、下流への水が途切れることになる。このため、河川の流量を一定にする目的で今渡地点(犬山市)にダムが設けられた。こうした施設を逆調整池と呼ぶ。
*4 地下採取と地盤沈下の因果関係は、当時まだ学問的確証が得られていなかったが、地域の農民は早くからこのことに気づき、訴えかけていた。
*5 さらにこの関知は激しさを増し、昭和48年には274km2に拡大。場所によっては海抜マイナス2.9mという凄まじさであった。もしこの時期に伊勢湾台風と同じ規模の台風が来ていれば、被害は想像を超えるものになっていたであろう。
*6 「木曽川用水事業・濃尾第2地区」で馬飼地点(愛知県祖父江町)に建設された頭首工(取水堰)。これにより、地下水の代替水源(工業・都市用水)が確保され、地盤沈下は沈静化し始めている。
*7 昭和60年、国により制定された「濃尾平野地盤沈下防止対策要綱」に基づき、国営の「尾張西部農業水利事業」(平成8年完了)や県営の地盤沈下対策事業、湛水防除事業などで災害防止が図られている。
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