トップページに戻る 疏通千里・利沢万世 ふたつの王国 共存社会を目指して 新しいアジェンダ 工業化社会への轍 安城ガ原と七柱の神 手造りの大地 入鹿池 輪中と歴史的用水 木曽川と尾張藩御囲堤 動かざるための技術 疏通千里・利沢万世
第8章 共存社会を目指して 金山取水口
 「近代的技術とはこういうものか」。その設計図をアメリカ人から見せられた時、日本の技術者は言葉にならないショックを覚えたという。

 伊勢湾台風の頃、“戦後の日本を創った”といわれる超大型プロジェクトがすでに愛知で侵攻していた。日本が初めて「世界銀行」からの借り入れを受け、初めてアメリカの大型土木機械や先進的工法を導入するとともに、初めて各省庁間の縦割りを越え、初めて官民一体となった“公団“方式で事業に臨むという文字通り「初めて」づくし、国をあげての大事業であった。
 霊峰御嶽山(長野県)の麓、木曽川支流である王滝川に巨大なダム(牧尾ダム)を建設し、木曽川下流の兼山取水口(岐阜県八百津町)で取水、濃尾平野東端の山々を越え川を渡り、知多半島の先端にまでいたる延々112kmの幹線水路*1で水を引く−夢の用水といわれ、日本版TVA*2ともいわれた「愛知用水」である。

 日本の技術者が驚いたのは、その青い目のパートナーが日本から送られた資料をもとに(現地を見る前に)すでに基本計画図を作成し、それを何枚も携えて来日してきたことである。それまでの日本では、周到な現地調査から始めるのが常識であった。
 愛知の気候や風土、農地の状況、経済や産業の構造、人工、都市計画・・・、そうした社会のベクトルを計算しつつ、水の配分と流路を地形図に描きこんでいく。それは、いわば社会総合開発の計画図でもあった。
 上流のダム建設から、取水口、幹線の開水路やトンネル、サイホン、さらには末端の水路や圃場[ほじょう]整備までをほとんど同時に着工、この3県にまたがる超大型プロジェクトはわずか5年という短期間で完成を見ている(昭和32年着工、同36年完成)*3

 愛知用水は、岐阜・愛知にまたがる27市町、とりわけ水不足に悩んでいた知多半島の山野を見事な田園地帯に変貌させるとともに、鉄鋼業をはじめとするこの地の工業用水を供給、あるいは水道用水として高蔵寺ニュータウンをはじめとする丘陵地の都市開発などにも絶大な役割を果たした。
 のみならず、このプロジェクトで培われた様々な農業土木技術、畑地灌漑技術*4は、豊川用水、群馬用水、香川用水などに受け継がれ、全国各地で大規模な水利システムを築き上げていった。

 しかし、まさに国家の命運がかかっていたともいえるこの事業は、下流の農民にしてみれば驚天動地の出来事でもあった。いくら牧尾ダムという巨大な水瓶を造るとはいえ、これだけの大用水となれば、木曽川の流れを変えるに等しい。下流に及ぼす影響は誰も想像がつかない。
 先人が命を削りながら造り守ってきた歴史的用水。そして、数100年という膨大な農地の投資にもかかわらず広域におよぶ地盤沈下と塩害をかかえた干拓農地。
明治川神社
 「断腸の思い」とは、はらわたがちぎれそうな感情を意味しており、軽軽に使用すべき言葉ではない。しかし、下流に生きる農民にとって、愛知用水の承認は「断腸の思い」という言葉でしかその気持ちを表現できなかったであろう。
 近代的水利システムとは、そのスマートな語感と裏腹に、こうした思いを幾重にも縫い合わせて築いていくしか方法はないのではなかろうか。下流地区との水利調整は、微に入り細にわたって検討され、その決定には長い年月を要している。

 愛知用水を契機として、愛知の水利体系の大規模な改革が次々と推進されていく。

 「宮田用水」「木津用水」は、岐阜県側の「羽島[はじま]用水」と取水口を統合することとなり、国営「濃尾用水事業」として、犬山頭首工が新設された(昭和42年完成)。
 さらに、下流の「佐屋川用水」等(最も地盤沈下の激しかった地区)は、水資源開発公団の「木曽川用水事業・濃尾第2地区」として、馬飼頭首工の建設(昭和52年暫定通水開始)など、近代的整備がなされた。この事業は、農業用水の合理化などをもって愛知県の工業用水、都市用水を生み出すと同時に、三重県側にも都市用水を供給することとなった。言うまでもなく、地盤沈下すなわち地下水汲み上げの規制を伴っている。

 ここにいたってようやく、尾張、とりわけ木曽川をめぐる水利体系は、御囲堤の呪縛から解放されることとなり、木曽川をめぐる上下流の新しい水秩序が形成されたのである。

*1 農業用の支線水路を合計すると約1,012km。名古屋から八戸市(青森県)までの鉄道距離に等しい。
*2 1929年の大不況を克服するためニューディール政策の一環として設立されたテネシー川流域開発公社(TVA)のこと。同公社は、テネシー川に洪水調節、電力生産の多目的ダムを建設し、植林、土壌保全、河川整備などを進めるとともに、漁業、鉱業、観光資源開発を行い、総合的地域開発として多くの成功を収めた。
*3 世界銀行はこの事業を通して、終戦の復興期にあった日本の事業管理能力、返済能力、技術力等を試していたという。この後、新幹線や首都高速道路の建設に世界銀行は積極的に金を投じている。愛知用水事業は、世界の奇跡といわれた日本の高度経済成長の起爆剤ともなったのである。
*4 愛知用水は畑地灌漑(畑にスプリンクラーなどで水をかける)の実験的プロジェクトでもあった。愛知用水公団では、国内の英知を結集するとともに、アメリカの大学や研究機関の援助を受け、実験農場を通してその技術開発を行った。その技術が、日本の農業、および水資源の有効利用に大きな貢献を果たしたことは言うまでもない。現在もなお、日本の畑地灌漑技術は国際的にも高い評価を受けている。
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