岡山にとって幸運だったのは、江戸時代の初期、稀代の名君といわれる池田光政*1を迎えたことであろう。
この時代、戦国の世は終わりを告げ、各地の大名は武力による統治から文教によるそれ(文治)へと転換すべき時期にあった。
領主は、何よりも国を富ませ、政治や教育によって人心を安定させる能力が必要だったのである。
光政は英明にして剛毅[ごうき]、また非常な勉学家であった。大名にしては珍しく心学(陽明学*2)を尊信し、各地から名だたる学者を集めて自ら修学に励んだ。、参勤交代の折にも約40kgの書物をたずさえたといわれている。
心学は儒学の中でもより道徳的理性を重んじる思想体系であり、彼の政治理念は、“仁の徳”に裏付けられた領民支配であった。
特に、光政は農民政策に異様なまでの熱意を注ぎ、家来よりも農民を大切にし過ぎるという部下の不満すら生んでいる。
家中や領民にも学問を進め、全国で初めての藩校や庶民のための閑谷[しずたに]学校を造るなど、革新的な藩政を行なっている。今も強く残る岡山の特異な教育風土*3は、光政の時代に出来上がったものといってもいいであろう。
現在、彼の残した著書や33年間に及ぶ克明な日記から、心学に裏付けられた旺盛な「仁政[じんせい]」ぶりを窺[うかが]うことができる。
お家取り潰しの相次ぐ幕藩体制初期、約50年に及ぶ啓蒙的な治績を残し、その後の池田家に磐石の体制を築いた光政の業績は計り知れないほど大きい。
その光政の臣下であり、学問上の師であったのが陽明学者の熊沢蕃山[くまざわばんざん]*4。
蕃山は、荻生徂徠[おぎゅうそらい]と並ぶ経世学の先駆者として、今も日本の思想史の中で異彩を放っている。
ここで彼の業績について触れる暇[いとま]はない。しかし、藩校花畠教場[はなばたきょうじょう]の設置、承応3年の大洪水、それに打ち続く大飢饉の処置など、治山・治水・民政・飢饉対策から財政・禄制・武士の土着制まで、光政のブレーンとして約10年間、その手腕を遺憾なく発揮している。
蕃山は、当代一流の学者でありながら、社会経済政策を担当する実践家、主に治水面での土木行政に秀でていたという。
彼の理念は日本固有の気候・地形に根ざした水土[すいど]論、徹底した森林保全主義者であった。
「山川は国の元なり。近年、山荒れ、川浅くなれり。これ国の大荒なり」(「大学或問」)。
岡山においても、塩田や備前焼、神社造営のための森林伐採を厳しく戒めた。
また、後に「諸国の川堤の普請は飯上の蝿[はえ]を逐[お]うと云うがごとし」と泥縄式の河川行政を批判し、山河の理を繰り返し説いている。
彼はまた、新田開発、つまり干拓に対しても批判的であった。
干拓はひとつの宿命を背負っている。新しい干拓地が誕生すると、それまで海の最前線であった以前の干拓地が排水の行き場を失うのである。
もとより海抜ゼロメートル以下。加えて、地下水位の変化のため地盤沈下が生じやすく、湿田と化してしまう。したがって、新しい干拓地を造れば、古田の排水路や耕地の整備をも行わねばならなかったのである。
さらに、新しい干拓地の水田には、どこからか新しく水を引いてこなければならない。
光政は新田開発に積極的ではあったが、蕃山はあくまでも治水を重視、古田を優先し開発を抑えることが「仁政」であると主張した。
この時代、約600haの干拓がなされているが、蕃山の言うとおり従来の干拓方式*5では、すでに限界に達していた。
しかし、この時期、光政はもう一人のとてつもない天才を擁[よう]していたのである。
※1・・・
姫路城主池田利隆の子である光政は、叔父にあたる前藩主の死によって鳥取城から岡山へ移封。その後の備前藩池田家の藩祖となる。
※2・・・
幕府の奨励する学問は朱子学であり、陽明学はいわば異端であった。光政も幕府の嫌疑を受けるなどして、後に朱子学に転向している。
※3・・・
江戸期、私塾の数は岡山県が第1位。明治後期、高等女学校の数も全国1位。現在も10万人あたりの大学・短大の数は全国5位。
※4・・・
京都の生まれ。16歳で光政に仕える。一旦辞して近江聖人といわれた中江藤樹に師事。再び岡山に戻り、30歳の若さで3000石取りの番頭となる。さらに岡山を辞し各地へ招かれるが、晩年は幕府のとがを受け古河に禁固。著書に『大学或問』『集義和書』『集義外書』等。
※5・・・
備前では、前の領主であった池田忠雄の時代(1615-1631)、すでに240ha程の藩営による干拓がなされている。なお、干拓の記録は諸説あって定かではないが、この冊子では『岡山の干拓』(進昌三・吉岡三平)の体系的資料を参考とした。