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■津田永忠の陶像(備前焼)〈岡山市沖田神社〉

津田重二郎永忠[ながただ] ――― 「その才、国中に双ぶものなし」と光政をして言わせしめた岡山藩きっての英才である。


永忠は蕃山の弟子であったが、蕃山が岡山を去って後、彼をはるかに上回る業績を残している。

ざっとあげるだけでも、天下の名園・後楽園の建設、国宝・閑谷[しずたに]学校*1の建設と経営、吉備津彦神社や曹源寺の造営、そして、倉安川の開削と倉田新田の開発、幸島新田、沖新田の開発、牛窓の築港、田原井堰、百間川の開削……。300年を経た今も岡山県の財産であり続けているこれらの治績を、永忠はわずか20余年で成し遂げている。

さらに、郡代*2としての行政や難民の救済、財政の立て直し……。


とりわけ注目すべきは、百間川の開削と沖新田の干拓。


百間川とは、蕃山が岡山を辞して後、“蕃山の策”として永忠が進言してできた放水路である。

岡山の城下を流れる旭川は川が浅くなってきており、承応3年(1654)の大水害など、たびたび災害をもたらしていた。

そこで、城の上流地点で土手の一部を低くし(荒手堤という)、大きな川溝を掘って東の中川までつなぐ。旭川の洪水時には水がそこで分流されるようにしたわけである。

ところが、それで困ったのが中川周辺の地域。もとより排水の悪い干拓地に、城下へ流れるべき洪水が押し寄せてきたのではたまったものではない。実際、延宝元年(1673)の大洪水では、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだ。ところが、洪水は中川周辺の農村部を襲い、大災害となったのである。

その後数年、大凶作が続き、藩財政も窮迫してしまう。また、人口は増えるばかりで、農民は窮乏しつくしていた。


津田永忠は、この時、ある壮大な構想を描いていた。

百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長、その河口に1,900haという前代未聞の大干拓を行うというもの。後の沖新田である。

当然のことながら、藩財政の困窮にあえぐ家中、ならびに先の洪水で壊滅的打撃を受けた中川、砂川周辺農民の猛反発にあう。


やむなく永忠は計画を棚上げにして、利害関係の少ない倉田新田(360ha)を開発、同時に用水兼運河として倉安川の開削も行う(1679年)。

しかし、この程度では当時の社会の危機的状況は救いようがない。

彼は大規模な干拓を行うとすれば、大河川の河口にしかないと考えていた。しかし、それは当時の干拓技術の常識をはるかに超えるものであった。


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■図4 百間川と沖新田

彼は、幸島新田(図4参照)でそれを試みる。

複雑な海流や海洋の諸条件を徹底調査し、大阪の優秀な石工を使って海の中に長大かつ精緻な石積堤を築く。そして、排水を良くするため神崎川の末端を広げ(大水尾[おおみお])、流入する河川に水門を設けて排水調節を行なう。さらに、川の底を潜る高度なサイホン技術等を駆使し、上流の吉井川から延長約18kmに及ぶ坂根[さかね]大用水を開削して水を確保するという近代的な干拓システムを生みだしたのである。

幸島[こうじま]新田600haの誕生である(1684年)。


こうして大河川沿いの干拓が可能なことを世の中に実証し、その2年後、百間川の築堤に着手。その間、池田綱政の命により後楽園を造りながら、遂に彼は元禄5年(1692年)、大海原[おおうなばら]の上に南北4km、東西5kmという古今未曾有[みぞう]の大干拓・沖新田1,900haを完成させるのである。


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沖新田絵図

しかも、工期はわずか6ヶ月という驚異的な速さ。

さらに後には、百間川河口部の潮止堤に大型樋門20基を連結した高度な排水機構(唐樋[からひ])を考案し、設置している(図5参照)。この唐樋は、昭和42年に新河口水門ができるまで実に263年間の長きにわたり、岡山を高潮の被害から守り続けてきた。


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■図5 沖新田「唐樋」の構造図

元禄期、どこの藩でも財政は窮乏している。しかし、この時期の岡山藩の躍進は著しい。永忠により2,800haを超える新田が生み出されたことが大きな要因であろう。

この藩も財政難に陥っていたが、永忠は、社倉米[しゃそうまい]という今の特別会計のような制度を生み出して立て直しを図った。光政の長女の持参金である銀1000貫(約米2万石)を元手に利息運用し、干拓資金や藩営事業に充てるとともに農民にも安い利息で貸すという見事な手腕である。


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■閑谷学校(国宝)

彼はもともと土木技術者であったわけではない。むしろ、藩校の経営や農民救済などで手腕を発揮した文官、経済官僚であり、光政の死後は、閑谷学校に左遷させられたりもしている。

彼は普請にあたっては、2人の土木巧者を両腕とし、地元の農民を両足とした*3。また、大阪から優秀な石工を呼び、高度な土木技法を取り入れている。いわば天才的プロデューサーであったといえよう。


蕃山は、国の礎[いしずえ]として環境保全の道を高らかに説いた。そして、永忠は、その礎の上に、国の発展、いわば開発の道を鮮やかに切り拓いたことになる。


彼の手になる後楽園を天下の名園というなら、沖新田もまた天下の名田、農業土木史上における金字塔であろう。




※1・・・

備前市閑谷にある藩設立の学校。庶民の教育を目的としたが、講堂、聖廟、文庫などをもち「江戸の聖堂の他にこれほど壮麗な学校はない」(横井小楠)といわれるほどの規模。特別史跡に指定され、建物のほとんどが国重文、講堂は国宝。


※2・・・

郡代とは、家老に次ぐ要職であり、自治、建設、農林水産、法務大臣を兼任したような地位。


※3・・・

田坂与七郎と近藤七郎。彼らは岡山藩きっての土木巧者であった。百間川の唐樋も彼らの考案である。また、工事に際して、永忠は地元の農民や漁民の知恵を重視した。これは蕃山の教えでもあった。


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