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話は、伝三郎亡き後の藤田組に戻る。

一区・二区に引き続いて、今度は三・五区、約1,200haの干拓が進められた。


01
ムルデルの策定した児島湾干拓計画図

この区の干拓は、完成にいたるまで実に30年の長きを要している(大正2年~昭和25年)。

潟の泥土はさらに深さを増し、粗朶と捨石を投下しての地盤造りという気の長い作業から始まったためである。


資金は膨大に膨れ上がる。しかも、昭和2年の金融恐慌で、藤田組の中枢ともいえる藤田銀行が倒産。農場の相次ぐ小作争議に苦慮しながら、なお伝三郎の意志を継いで干拓は続行された。


しかし、三・五区の干拓地は、戦時色が強まる中で、県の港湾用地や軍の飛行場用地としても転用。

さらに戦後の農地開放によって、藤田組は多くの干拓地の権利を失うこととなった。


一企業の営利行為、そして、その結果といえばそれまでだろう。

しかし、これらの干拓地なくしてその後の岡山の躍進はあっただろうか。


02
■整地中の七区。左側ではすでに営農が始まっている。海が美田に転じる歴史的一瞬。(昭和30年6月撮影)

また、この地で水と苦闘してきた農村は、その後、全国に名を馳せることとなる。水の禍[わざわい]転じて、この地を日本一の機械化農村へと導くのである。

きっかけは、興除[こうじょ]村の農家による「大車[おおぐるま]」という、牛を動力とした原動機の発明だった。これにより、揚水や脱穀、籾摺[もみすり]りが省力化され、農業の機械化が進展した。

さらに、大正13年の大旱魃[かんばつ]を契機に、石油発動機を導入、アメリカから購入したトラクターも水田用に改造、作業工程を次々と機械化していった。

昭和の初期にはすでに、全国でも例のない機械化農村として日本の農業をリードするとともに、岡山はトラクターをはじめとする農機具生産のメッカとなったのである。


もとより広大にして平坦な土地である。水のコントロールさえできれば、これほど水田に適した地はない。今も、この地は稲の直播[じかまき]栽培で有名だが、機械化による直播発祥の地である。興除村はまた、後継者育成のために大正6年、自らの手で後の県立児島農業高校を設立している。


こうした干拓地の努力と叡智[えいち]、そして成功がなければ、その後の国営干拓もまたあり得ただろうか。


農地改革と同時に六区の干拓は昭和21年、そして、七区もまた同22年、農林省が国営事業として引き継ぐこととなった*1。戦後の復員、引揚者の労働供給、食糧増産などの国家的使命も背負ったわけである。


六区、922ha。七区、1,582ha。あわせて2,500ha。最大の課題は、やはり用水の確保であった。


日本農業をリードした興除村でも、水不足の抜本的解決には至っておらず、水をめぐる苦闘は続いていた。


この児島湾干拓が“世紀の大事業”と呼ばれたのは、当時日本最大の干拓工事であったことと同時に、それが世界第2位の人造湖*2を築くという壮大な計画を伴っていたからである。

児島湖―――児島湾の中ほどを延長1,558mの巨大な堤防で囲い、淡水湖を築く。その真水をポンプで上げ、干拓地に配水すれば、この地域の長年に及ぶ深刻な水問題は一挙に解決を見る。

平安時代から続いてきた歴史的農業水利の大改編*3をも伴っていたのである。さらに高潮による塩害や津波の心配、地盤沈下等の問題からも開放される。“昭和の沖新田”とでもいうべきか。


工事は難を極めた。なにせ古代のタタラから約1500年、積もりに積もった泥の海。堤防底部の幅は実に最大170mに達している。


未明の海に飛び込んで捨石を運び、泥海と闘った幾万という人々。彼らの手と足によって、広大な実りの大地が創られたことは、未来永劫、忘れてはなるまい。


03
■潮止め夜間工事(昭和23年4月23日撮影)

蒼海[そうかい]転じて美田となす―――昭和23年4月、干潮時を見計らって潮止め夜間工事が決行。まだ明けやらぬ空の上に完了の花火が打ち上げられた瞬間、ほとんどの者が互いに抱き合い感涙にむせんだという。


昭和34年、児島湖が誕生。

そして、その4年後、藤田組の着工から約40年をかけた世紀の大事業・児島湾干拓が完了するのである。




※1・・・

七区は、戦時中の緊急食糧計画に基づいて、昭和19年、農地開発営団が藤田組の権利を譲り受け、同22年、農林省の国営児島湾干拓建設事業として引き継がれた。


※2・・・

世界第1位の人造湖はオランダのアイセル湖。アイセル湖が児島湖のモデルとなった。


※3・・・

国営事業は児島湾の淡水化とともに、小坂部川ダムを水源とする高梁川用水の再編などを行なっている。


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