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01
明治41年、車力村からの遠望、山上笙介「西津軽」(津軽書房)より転載

戦国時代、この地を統一したのは津軽藩初代・津軽為信[つがるためのぶ]である。


室町初期、奥州[おうしゅう]一帯に広大な領土を持っていた南部[なんぶ]氏は、その領域を北に伸ばし十三湊[とさみなと]を手に入れた(1443年)。しかし、この地の人間は人種も異なり*1、南部の農耕社会とは別世界であったらしく、津軽の支配は浪岡[なみおか]城を拠点に勢力を持っていた国司[こくし]・北畠[きたばたけ]氏に委[ゆだ]ねたらしい。為信[ためのぶ]はその北畠氏を滅ぼし、1578年、南部から独立した。以来、南部藩と津軽藩は、同じ青森県ながら時に対立し、方言も風習も異なるという。


それはともかく、南部氏すら見捨てたこの北限の原野を、石高[こくだか]で競うひとつの藩になそうとした若き為信の野心なくば、後の色鮮[いろあざ]やかな津軽文化も生まれず、この地は今も失われたまほろばと語り継がれるだけの陸奥[みちのく]の僻村[へきそん]だったかも知れない。


すでにその縄文型まほろばも失われて久しい。


上の写真は、明治後期の車力[しゃりき]村(遠くに屏風[びょうぶ]山)。江戸初期、今の津軽平野のほぼ全域が、このような茫漠[ぼうばく]と萱[かや]が茂るだけの湿原だったに相違ない。

為信の逸話が残されている。

領内巡視の折、山路からはるか茫々[ぼうぼう]たる原野を眺めていると、柏[かしわ]の巨木*2の傍[かたわら]から炊煙[すいえん]が立ち昇るのを発見し、草薮[くさやぶ]をかき分けて訪ねたという。


ささやかながら耕作をなしている3軒の茅屋[かやや]があり、蟻巣[ありす]村と称していた。

為信は大いに感じるものがあったらしく「広須[ひろす]村」と改めさせ、さらなる開墾[かいこん]を奨励[しょうれい]した。

藩による津軽開発の拠点ともなった広須新田。現在の木造[きづくり]町、柏[かしわ]村である。


以後、この地の開発は積極的に進められたが、度重なる洪水と飢饉のため何度も荒廃[こうはい]したりした*3


江戸初期、ここから先、十三湖までは全くの萱沼[かやぬま]であり人馬の往来は困難を極めた。この広須から菰槌[こもづち]村まで木材二通を敷きつめて交通路としたらしい。通称、木作村、今の木造町の由来という。


いずれにせよ、津軽藩初期の平野の様子が良くうかがわれるであろう。


さて、この地を統一して津軽という一藩をなし、明治まで維持させたというだけなら、他の大名とさほど変わりはない。


しかし、この国は歴史には登場せずとも、凡百[ぼんぴゃく]の藩には及びもつかない大業を成し遂げてきたのである。


北海道と本州では、気候や地理的条件、林相[りんそう]などの生態的条件から動物相が区分され、この津軽海峡上の動物学的境界は「ブラキストン線」と呼ばれている。

南では、屋久[やく]島と奄美大島の間にも「渡瀬[わたせ]線」という動物地理区がある。


この線は、当然のことながら人も動物であるため、人種、社会、文化などの境界ともなるらしい。北海道は江戸の終わりまでアイヌの地であり水田社会には属さず、奄美や沖縄も日本ながら琉球[りゅうきゅう]国として独自の社会を形成してきた。


前述した縄文型・弥生型社会という区分を適用すれば、古代から中世にいたる東北の歴史は、この社会的ブラキストン線とでも呼べそうな、つまり、稲作前線北上の歴史であったともいえよう。


この社会的ブラキストン線は明治以降、北海道を北上し網走のあたりまで登りつめることになる。

蝦夷開発は国策であり、技術的にも資金的にも強力な援助があった。その近代的開発ですら、周知のごとく凄絶[せいぜつ]な戦いであり、開拓者は辛酸[しんさん]を極めた。


しかし、それまでの江戸期、津軽はその境界線を独力で押し上げつつ、約300年間にわたって弥生型社会の最北前線であり続けたのである。


5万石程度の大名*4が背負うべき使命ではない。


太宰治『津軽』から借用する。


02

この300年にわたり最前線であり続けた山河は、何十万人という累々[るいるい]たる餓死者[がししゃ]の上に築かれていったのである。




※1

北方民族系、特にアイヌ人が多かったらしい。


※2

柏村の名の由来。現在も同じところに2代目の柏の巨木がある。


※3

余談ながら、為信の慧眼はその約350年後に証明される。この地域は、戦時中、警察署管内で米の供出量が全国一になっているのである。


※4

津軽藩の表高は四万七千石。後に、七万石に課増(1805年)、そして1808年には十万石に昇格しているが、これは蝦夷地警備の功によるもの。


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