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冬の洪水
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十三湖の水戸口(現在)、水戸口右側の集落がかつての安東水軍の本拠地(提供:国土交通省青森工事事務所)
北津軽の雪は真横に降る。
降るというような生易[なまやさ]しいものではなく、地をはがす程の地吹雪[じふぶき]。この広漠[こうばく]たる水田平野に立つ何百本かの電柱は、皆一様に少し東へ傾[かし]いでいる。

毎年10月から3月まで吹き続ける日本海からの激しい風波。
その風と波が、海岸の砂をごっそりと運び、十三湖の水戸口(出口)を塞[ふさ]いでしまう。

大正7年に始まった岩木川改修工事の記録では、同13年までの7年間に計14回の閉塞[へいそく]を起こしたとある。
その内、自然開通が6回、人夫による開削[かいさく]が8回。
しかも、この水戸口は、津軽藩成立後から大正の工事で固定されるまでに計13回も開削する位置を変えている。

出口を塞がれた岩木川水系の水は、この平野に満ち満ちる。十三湖は、昔の姿を取り戻すかのようにその水域を広げるのである。

水戸口の閉塞は風のせいばかりではない。凍[い]てつく寒さのため時に湖面は氷結し、川の流れをはばむ。

岩木川の水源地である白神[しらかみ]山地は総じて低く、南にあるため雪解けが早い。その雪解け水が急激な勾配を持つ岩木川を滝のように流れ落ちてくるが、この湖にはった氷はまだ融[と]けない。他の地にあまり類を見ない冬の洪水が発生するのである。

さらに夏から秋にかけての洪水は凄[すさ]まじい。
「雨三つぶ降ればイガル」とこの地方では言ったらしい。イガルとは洪水のこと。

太宰治にならって、大阪夏の陣から昭和15年までの大洪水を列挙[れっきょ]してみたいが、とてもスペースが足らない。この325年間のうち洪水に見舞われた年が108。ちょうど3年に1度の割
*1で起きていることになる。

昭和に入ると年に複数回起きている年が多くなる。



水浸[みずびた]しの平野といっても過言ではなかろう。
冬の洪水が発生するたび、水戸口の開削[かいさく]をめぐって、十三[じゅうさん]集落の村民と岩木川沿い集落の農民との間で何百年間にわたって諍[いさか]いが繰[く]り返されてきた。
かつての安東水軍の末裔[まつえい]ともいえる十三村民は漁業と舟運[しゅううん]で生計を立てていた。彼らにとってこの水戸口は港であり、農民の田畑と同じく村の存亡を決する資産である。開削位置の優劣は、彼らの死活問題であった。湖の水位が上がることも、舟の運行にとって都合が良かったらしい。

ところが、田植えを間近に控えた上流の農民にとって田の冠水[かんすい]ほど忌[い]まわしいものはなかろう。一刻も早く、塞がった水戸口を開削したい。
牛潟[うしがた]、武田、稲垣、舘岡[たておか]などの村々から農具をもった農民が続々と押し寄せる。一方、これを阻止しようとする十三村民数百名。
流血の惨事[さんじ]として、明治以降もたびたび新聞を賑[にぎ]わしたという。

水戸口の開削
(提供:国土交通省青森工事事務所)
十三湖と共に縮小していった縄文型社会、あるいは中世に名を轟[とどろ]かせた安東水軍の最後の抵抗とでもいえようか。
いずれにせよ、「北のまほろば」の遠い火照[ほて]りもこれらの度[たび]重なる洪水と共に、この地から消え失せたことになる。
さて、ではこの御[ぎょ]しがたい巨大かつ水浸しの平野を、弥生型社会はどのように治めてきたのであろうか。
津軽文化の華やかさと比べて、その歴史の底の壮絶[そうぜつ]ともいうべき光景は、あまりに知られていない。



※1 細かく見れば、江戸時代は約3.5年に1回、明治と大正は2.4年に1回、昭和は目屋ダムの完成する35年まで、1.8年に1回と時代を追うごとに増えていく。

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