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ケガヅ(飢饉)と水争い
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ひとつには長期的な気候変動のせいだといわれている。
縄文時代の中後期は、全地球的に現在より2〜5度高く、弥生初期にいたって寒冷期に入っている。その後、8〜10世紀と回復するが、13世紀以降氷期に似た気候になり始め、特に日本では江戸時代、16〜19世紀にかけて小氷期と呼ばれる、近年では最も寒冷な時代であったらしい。

気候の変化と歴史
(高橋浩一著「気象なんでも百科」より)


弥生初期にすでにこの地に稲作は伝播していたが、寒冷期に入ったためか、それほど普及はしなかった。長い空白を経て、津軽為信がこの地を統一し、津軽藩が水田社会を築き始めたのとほぼ期を同じくして、地球は氷期に入っている。

津軽では、元和[げんな]、元禄[げんろく]、宝暦[ほうれき]、天明[てんめい]、天保[てんぽう]が五大飢餓と呼ばれている。ほとんどが連続凶作である。

元和(1615年)の凶作は、8月の大霜(雪ともいう)が原因らしい。翌年も前代未聞の死人の山を築いたと記録にある。

元禄8年(1695)の餓死10万人。宝暦5年(1755)は8月まで雪が舞ったらしい。「天明凶作記」(1780年代)によれば「死絶明家[しぜつあきや]3万5千余軒、餓死10万2千余人、時疫[じえき]による死者3万人余、他国に逃れたもの8万人余」。

そして天保(1830年代)は、3、4年、6、7、8、9、10年と凄まじい連続凶作。天保10年だけでも荒廃[こうはい]田畑約1万ヘクタール、餓死約3万6千人、他国への流散約4万7千人、その他、牛馬の死数知れず。死者が天明期より少ないのは、藩による備蓄[びちく]制度が徹底されていたせいという。
しかし、『青森県土淵史[どえんし]』にはこうある。「最早[もはや]義理人情を顧[かえり]みる隙[すき]もなく恐るべき鬼畜[きちく]と化し、犬・猫・牛・馬・家畜類を食い尽し、遂には親を殺し、子を喰[くら]うと云う、阿鼻叫喚[あびきょうかん]の修羅場[しゅらば]が各処に現出するにいたった。当に天明飢饉惨状[さんじょう]の再現であった」。

凶作の大半は、無論、冷害である。特に、梅雨[つゆ]時から夏にかけてヤマセと呼ばれる北西風が東北地方に異常な低温をもたらす。

大規模圃場整備前の水路網
農民は、早稲[わせ]・中稲[なかて]・晩稲[おくて]と混栽[こんさい]して危険分散を図ったり、他国の品種を試作・改良するなど懸命な努力を払ってきた。このためには厳密な水管理が欠かせない。とりわけ、稲の開花時の水不足は致命傷となる。

左の図のように、大地にびっしりと張り巡らされた水路網。
どこの田も一斉[いっせい]に一定量の水が要るのである。

ヤマセには抗[あがら]えなくとも、水は奪い合える。

下の新聞記事を、後世の我々があれこれ言う資格はなかろう。

水争いの新聞記事(弘前新聞 昭和3・4年)
取水口を大きく、太い水路を造れば洪水の災禍[さいか]。

さりとて細く造れば水不足。

そして、5年に1度の割で襲ってくるヤマセ。

繰り返しになるが、新田開発が進めば進むほど、こうした悲劇が激化していった。司馬遼太郎の表現を借りれば、「無理に無理をかさねた」ことになる。
近代土木技術を持たぬこの時代、人は天に祈るより他なかった。

さもなくば、上の絵馬[えま]のように、人柱となっても村を守るよりなかった。

藤崎[ふじさき]町の堰[せき]神社に、今は神として奉[まつ]られている堰八太郎左衛門[せきはちたろうざえもん]の、壮絶[そうぜつ]にしてこの上なく気高[けだか]い最期である。

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