さて、日本の3大都市といわれる東京、名古屋、大阪は、いずれも近世になって造られた街である。東京は徳川家康によって、名古屋は3代将軍家光の時代、そして大阪は、いうまでもなく秀吉の大坂城築城とともに発展してきた街である。
家康は、江戸の町を造るにあたって利根川の東遷[とうせん]という大事業をやっている。当時江戸へ流入していた利根川を渡瀬川などへ付け替え、霞ヶ浦の方へ流した。
また、名古屋は清洲の町を町ごと引っ越したといわれているが、その際に現在の名古屋市域をグルリと取り巻いている木曽川に長大な「御囲堤[おかこいづつみ]」を築いている。
いずれも荒療治とも言える大工事である。当時の家康や尾張徳川家が現代の大都市を構想していたとも思えないが、これらの工事によって今も通用する都市構造を持たせたことは驚嘆すべきと言う他はない。
一方、大阪を造った秀吉はどうであっただろうか。
あまり知られていないが、秀吉こそ土木の天才ともいえる存在ではなかっただろうか。一夜で造ったといわれる墨俣[すのまた]城、高松城の水攻めをはじめ、戦略においてこれほど地形と土木を巧みに利用した武将はいない。
その優れた土木戦略家が、当時ほとんど茫漠とした湿泥地帯でしかなかった難波の地に、大坂城を築いた理由は何であっただろう。その考察は史家に譲るとして、何故か秀吉は晩年近くになって伏見に移り、桃山城を造って、城下に全国の大名屋敷を配置している。
今でこそ伏見は京都の一区域に過ぎないが、少なくとも江戸時代まで、淀川流域においてこの地は極めて重要な要衝[ようしょう]であり続けた。
ここは京都と奈良、さらに大阪を結ぶ交通の要衝[ようしょう]であったが、山城盆地の最低位部であり、昭和の初期までここには「巨椋池[おぐらいけ]」と呼ばれる湖とも池とも判別つかぬ巨大な沼地が存在していたのである(右:図1参照)。
言うまでもなく、宇治川(瀬田川)、木津川、桂川が合流する一大遊水地帯であり、洪水時には3本の河川が逆流してあふれ、手の施しようのない地であった。
この人並みはずれた土木センスを持つこの戦国武将は、おそらく大阪繁栄のツボはここだと睨んだに相違ない。
彼は、この池に流入していた宇治川を分離して伏見の町へ導き、河港として整備した。さらに木津川、桂川の流路を堤防によって西側へ固定させると同時に、この堤防の上に道路を築き、大坂街道や大和街道を通している(下:図2)。
秀吉はまもなく病に倒れ、伏見城も廃城となるが、この工事のもたらした意義は極めて大きい。これをもって淀川の近世は始まると言っても過言ではなかろう。
堤防による河道の固定によって洪水の害は少なくなり、土砂の流出もスムーズになる(淀川河口のデルタを急成長させ、大阪の市域を広げた)。
巨椋池の縮小と安定によって、周辺の農地が増える。
京都、大阪、奈良を結ぶ大街道が整備される。
そして、何より伏見の築港によって、江戸の初期、角倉了以[すみのくらりょうい]による高瀬川の開削が成功し、ここで初めて京都と大阪を結ぶ舟運の大動脈が完成し、いわゆる「上方[かみがた]」という江戸と屹立[きつりつ]する大経済圏ができあがるのである。
交通網の整備がもたらす経済効果は計り知れない。
周辺の農村では、これまでの自給的栽培から都市に向けたいわば商品生産的栽培へと変化し、野菜類の他、麦、綿、菜種、藍等の商業的農業が飛躍的に発展していったのである。
近世を通して、京阪神の農業生産は他の地域を圧倒している。
とりわけ、綿の生産では、大阪をして一大綿織物工業地帯へと育てた功績が大きい。
農業が都市を育て、都市が農業を育てる構図が、この地の近世史から鮮明に読み取ることができるであろう。
王朝の湖水は、秀吉によっていわば近世の都市河川へと変貌していったのである。