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干拓は、琵琶湖でも行なわれている。


琵琶湖には、大小合わせて約40を数える内湖があり、中でも大中[だいなか]の湖、小中[しょうなか]之湖など4つの内湖からなる“中の湖“は長野県の諏訪湖より大きかった。


淀川改良工事に伴なって琵琶湖の水位は安定的に低下し、戦時下の食糧増産政策もあって湖東の水田地帯は注目を集めた。

もとよりこの地の米は江州米[ごうしゅうまい]として食味には定評がある。しかも、淡水湖であるため塩害の心配はない。まさに干拓の適地であった。


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大中湖の干拓(上方「西の湖」の左の小山が安土城跡)

前述したが、この地方は瀬戸内気候に属し、雨が少ない。

昭和の初期、深刻な農村不況の中で水利紛争が続発した。中でも犬上川[いぬがみがわ]名物ともいわれた水争いは有名であり、昭和7年の渇水時には10数名の犠牲者を出し、300人あまりの警官隊が3日をかけてようやく鎮静[ちんせい]させたといわれている。琵琶湖の水位が低下したことで田の冠水は少なくなったが、湖からの揚水[ようすい]灌漑に頼っていた多くの農村では、水不足が深刻化していった。


今日の近代的な大規模農業水利事業は、この犬上川沿岸農業水利事業から始まると言ってもいい。

着工は昭和7年。当時、農業用としては日本最大であったコンクリート重力ダムを擁する近代的な土地改良事業であり、昭和21年に完成している。

続いて、昭和13年、琵琶湖最大の河川である野洲川[やすがわ]の県営農業水利事業が始まる。これもまた受益面積約4,000haという大規模な土地改良であった。


さて、こうした琵琶湖の農業開発や淀川の改修工事と並行して、ある案が出たり消えたりしていた。

昭和10年、内務省は「湖岸築堤案」を発表する。これは琵琶湖に高い堤防を築くことによって水位を通常より上に保ち、その余剰分を、水力発電や工業用水に生かそうというものであった。下流域からは支持を受けたが、洪水を恐れる湖岸住民の反対にあい、あっけなく廃案となっている。


しかし、この頃からである、その調整だけで30年近くを費やした「琵琶湖総合開発」という概念が誕生するのは。


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琵琶湖(左は近江富士)

さらに、農林省からは琵琶湖を内湖と外湖に分けるドーナツ案。瀬田川2箇所にダムを造る関西電力案。建設省からも、湖中に巨大な風船(渇水時に膨らませ洪水時に空気を抜く)を入れておく案や日本海の水を入れる案など様々なアイデアが出された。


しかし、水問題は、常に利害が錯綜[さくそう]する。滋賀県、京都府、大阪府、各省庁や電力会社。調整は近畿から東京に移り、ついに国会まで持ちこまれて論議は紛糾した。

この琵琶湖総合開発は、その重要性、緊急性が指摘されながらも、一向に進展を見せなかったのである。


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琵琶湖総合開発事業

時代は、戦後復興期を経て、高度経済成長時代へ、さらに公害問題などの発生期へと目まぐるしく移り変わっていく。

その都度、開発案は修正され、調整され、また論議を呼んだ。


問題の焦点は、開発水量と琵琶湖の水位であった。

関係機関のトップ会談によって、ようやく決着を見たのが昭和47年。ついに「琵琶湖総合開発特別措置法」が閣議決定された。


当初10年間の時限立法であったが、昭和57年の事業変更とともにさらに10年間の期間延長がなされ、平成4年にも5年間の延長が決まった。


この事業の体系を簡略化し図示すると上のようになる。


特に、下水道やゴミ処理施設の設置など、焦点が水量から水質へとシフトし、さらに公園や自然保護地域の公有化など、琵琶湖の環境面に配慮している点が注目されよう。


時代とともに、「総合開発」という概念そのものも、新しい色彩を帯びてきたのである。


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