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  • 01
    昭和搦堤防。堤防の下の土が流されて、基礎の松枕が露出。
    佐賀県農業土木技術連盟『水と土を活かして』より転載
  • 02
    平成2年の大洪水
    (提供:水土里ネットさが土地)

この平野にはある宿命があった。

旱魃[かんばつ]である。

繰り返しになるが、脊振山地は山が浅く集水力に乏しい。中小河川はいくつかあるものの、これだけの広大な平野を潤すには決定的に水が足りないのである。

唯一、安定的な水量を確保できる河川はといえば、地元では宝川とさえ呼ばれる嘉瀬[かせ]川のみであった。しかし、この川は平野の西側を流れている。ということは、嘉瀬[かせ]川より東側、つまり平野の約3分の2は、十分に河川水が取水できない状態であった。

淡水[あお]取水が可能な地域は、主に佐賀江周辺の農地に限られていた(筑後川と結びついていない江湖は海水が逆流するのみで、淡水が取水できない)。無論、クリークもあったが、上流から水が来なければ蓄えようもなかった。


さらにもうひとつの宿命があった。周知のごとく、九州は台風の常襲地帯である。九州上陸の際は、気圧も低く、まだ勢いを殺[そ]がれていない。

また、梅雨時の集中豪雨も本州に比べ格段に激しい。


この勾配のほとんどない手造りの大地、しかも、ほとんどが海抜ゼロメートル以下のクリークだらけの平野に、もし大雨が降ればどういう事態になるか。

さらに、有明海の満潮、すなわち逆流水が平野の上部にまで溢れているとき雨が激しくなれば、どういう事態になるか。唯一の排水路である数本の江湖は、すでに高潮で溢れている。さらにそこへ、筑後川上流で雨が降り、洪水が押し寄せてきたら・・・。

目も当てられない事態になることは容易に想像できよう。


とりわけ、台風がこの地域の西側を通過する時、風は南から吹きつけるため、軟弱地盤の上に築かれた堤防は簡単に破壊されてしまう。大惨事となった。

佐賀県がまとめた『佐賀県災異[さいい]誌』には景行[けいこう]天皇の頃(西暦100年前後)から近年にいたるまでのおびただしい数の災害が記録されている。

明治から昭和50年頃までに300を超す水害(1年に3回)。大きな水害はほぼ4年に1回の割で起きている。とりわけ昭和28年は、死者行方不明520名という大洪水が発生した。

用水不足と水害というやや矛盾する現象こそ、この平野の長年に及ぶ宿命だったのである。

さて、ようやくここで、話は江戸初期の佐賀になる。


私たちが、佐賀の風土、あるいは佐賀県人などと概念的なまとまりとして地域を論じることができるのは、やはり江戸の幕藩体制で築かれた“国”としての骨格のおかげであろう。


戦国時代、各地の大名は領国を富ますことが最大の課題であった。つまり、領国経営の才能のある者が、新しい大名としてのし上がり、覇[は]を競ったわけである。

そして、織田・豊臣から徳川にいたる激しいサバイバル時代を生き伸びた領主だけが残った。したがって、戦国のいわゆる地生[ぢば]えの大名から明治維新まで続いた国持大名となると、その数は極端に少なくなる。

肥前鍋島家三十六万石は、龍造寺[りゅうぞうじ]家の家臣だったものの、この地から出て、戦国、江戸時代ともこの地を治め続けた数少ない大名のひとつである。


徳川政権が安定すると、もはや軍事の才は不要になる。この先領主に必要な才は、治国済民[ちこくさいみん](国を治め民を済[すく]う)。

藩祖・鍋島直茂は、この制御[せいぎょ]しがたい佐賀の特異な水土を国として、どう治めたのか。


この地には、北茂安[きたしげやす]町という名の町がある(佐賀県三養基郡北茂安町)。また、佐賀市に編入されたが、以前は兵庫[ひょうご]村があった。南茂安村(現在は三根町)もあった。

あるいは、茂安会、兵庫まつりといった農事はいたるところにあるらしい。

これらはいずれも鍋島藩家老であった成富兵庫茂安[なりどみひょうごしげやす]の名に由来している。

成富兵庫は、後世、戦国三武将の一人と称えられたほどの武人であり、戦において数々の偉功を立てている。

しかし、彼が今の世に名前をとどめているのは、武功ではなく、彼の行った水利事業のゆえである。


江戸城の工事や大阪冬の陣等で異常なまでの財政危機に陥っていた佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂は、“領分の儀”、すなわち領国経営の一切を、この成富兵庫に任せたのである。

このとき兵庫、55歳。没するまでの20年間に彼のなした佐賀平野の水利体系(左図参照)は、終戦直後にいたるまでほとんど動いていない。




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