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昭和初期の大江用水。
約1000年を経た現在も宮田用水として大きな役割を果たしています。(写真提供:水土里ネット宮田用水)

百人一首でも名高い赤染衛門[あかぞめえもん]は、紫式部や清少納言とともに平安中期を代表する女流歌人です。彼女は、尾張国司[こくし]であった夫の大江匡衡[おおえまさひら]とともに尾張の国へ3回も赴任しています。匡衡は藤原道長[みちなが]に重用された一流の漢学者であり、歌人としても名を残しています。

彼が尾張の国(当時の役所は今の稲沢市)に赴任したのには、厄介な背景がありました。


前任の国司である藤原元命[もとなが]が水路の改修費を着服したらしく、洪水や飢饉[ききん]時に何も手を打たなかったとのことで、郡司や農民が元命の停任[ていにん]を求める嘆願書を出しています。その後釜として赴任したのが匡衡[まさひら]でした。

彼は、その争議の根源は用排水の不備であるとして、当時、木曽川の支流であった河川を改修、今の江南[こうなん]市宮田から水を引き込み、一宮市、稲沢市を南下し、蟹江[かにえ]川となって伊勢湾に流れ込む一大用水を造りました(1001年)。ここで初めて利水・治水の便を得られた農民は、この業績を称えて「大江用水(現在は宮田用水)」と名づけたとあります(『宮田用水史』)。

真偽は定かではないとする説もありますが、当時すでにこの地方には大規模な灌漑[かんがい]用排水路の工事が行われていたことは確かなようです。

彼は「今年、洪水に遭[あ]い大旱[たいかん]に遭う、国衰[おとろ]ふとも治術少し」と熱田社願文に書いています。また、この地でこんな歌も詠[よ]んでいます。




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農民の怠慢を嘆いた歌のようですが、いずれにしろ匡衡[まさひら]は農業施策に熱心な官吏[かんり]であり、また「尾張学校院」を建設するなど、都の文化を伝えた赤染衛門ともども尾張での足跡は大きく、在地豪族に大江氏を名乗る者も出ています。

現在も、国府宮[こうのみや]市松下には、赤染衛門ゆかりの場所に、二人の歌を詠んだ歌碑公園が造られています。

さて、話はこの大江用水の頃に戻ります。

当時の尾張平野は、今とは似ても似つかず、やや大袈裟に言えば木曽川の一大氾濫[はんらん]平野でした。匡衡も嘆いているように、ほぼ毎年のように洪水や大旱魃[かんばつ]が繰り返され、古書にも 「去[さ]んぬる文永年中(1264~75年)、炎旱[えんかん]日久しくして(中略)美濃・尾張殊[こと]に餓死せしかば、多く他国へと落ち行きける」(『沙石[しゃせき]集』)などと尾張の惨状[さんじょう]が描かれています。

尾張平野ばかりではなく、美濃も木曽川の一大氾濫原野でした。

日本第2位の広さを持つ濃尾平野。この平野の歴史の大半は、木曽川との闘いの歴史でもありました。


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