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01
「Product/Geoscience Agency/ARTBANK/IMAGE」 02
資料)伊藤安男「輪中地帯とその特質」
  岐阜県博物館『輪中と治水』より。
数値は建設省データ。
03
貝塚爽平他『日本の平野と海岸』
(岩波書店)より転載(一部加筆)

木曽川河口の右岸にある長島温泉の湯は、地下1000~1600mから汲み上げられています。この湯は数百万年前に形成された東海層群という地層(下図参照)に閉じ込められていた湖の水が温められたものであると言われています。

この東海層群は、名古屋東部の台地や猿投[さなげ]山方面で隆起し、木曽川の河口(西側)方面では沈降するという傾斜した地殻運動を今も続けているらしく、濃尾震災(明治24年)の前後10年では、東の各務原[かがみはら]台地では77cmの隆起に対して、西の揖斐[いび]川左岸では30cmの沈降が生じています。

現在は1年間に1~2mm程度のゆっくりしたペースですが、いずれにせよ、この地殻運動が木曽川や長良[ながら]川を西へ西へと追いやり、養老[ようろう]山脈に沿って流れる揖斐川と三川[さんせん]が合流するまでに至ったというわけです。


加えて、三川とも我が国の主要河川では突出した流出量を持っています。


流域100km2当りの年間平均流量では、三川とも利根川の2倍以上(右表参照)。この三川が合流しては堪[たま]りません。この平野は古代から日本でも有数の洪水常襲[じょうしゅう]地帯でした。ようやく水害が減少するには、明治の木曽川下流改修工事まで待たねばならなかったのです。


しかし、大江匡衡[おおえまさひら]の頃の木曽川は河道定かならず、犬山[いぬやま]扇状地あたりから七筋ともいわれた派流が尾張平野を乱流し、平野は文字どおり氾濫原として毎年のごとく氾濫を繰り返していました。

ちなみに、この木曽川は木曽山地との物資交流が意識されるまでは、鵜沼[うぬま]川、尾張川、美濃川などと呼ばれていました。

藤原道長の無量寿院建立(1019年)の頃から木曽の美林が注目され始め、伊勢神宮の用材としても利用されるなど、この暴れ川は、農業用水よりもむしろ木材の搬送路として価値を高めていったと推察されます。

その後、天下を掌握[しょうあく]した豊臣秀吉は、木曽を自分の蔵入地[くらいりち]とし、木曽の山と川の一元的支配を図りました。彼は1594年、木曽川の改修工事を行い、ほぼ現在の流路に固定します。

大阪城や淀城の建設で木曽ひのきの需要が急増し、輸送力の強化が必要になったためでしょう。木曽川という名称が固定するのは、この頃からだといわれています。

やがて政権は徳川に移り、家康はこの秀吉の蔵入地をそっくり自分のものにします。


そして、家康は、濃尾平野の歴史を一変させる、とてつもない大工事を施したのです。


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