美濃側の堤防は、尾張側より約1m低くせよ。この差別的治水策を実証する資料の類は見つかっていません。
しかし、木曽川右岸・左岸の破堤回数を示す表が木曽三川をめぐる状況のすべてを物語っているのではないでしょうか。
前述した地殻変動のせいで、この三川の川床[かしょう]は木曽川が最も高く、次いで長良川、揖斐[いび]川と低くなっています。
木曽の流れは、南進するあたりからすでに長良川、揖斐川と入り乱れて、それぞれの支派流が錯綜[さくそう]し、あたかも荒いレース網目のような模様を呈しています(前頁図参照)。
そして、これらの川に囲まれた島とも中州[なかす]ともつかぬ土地がいわゆる輪中[わじゅう]地帯。明治の頃にはその数80余り、面積にして約1800km2、今の大阪府に匹敵する広さでした。
各々の輪中は周りを堤防で取り囲み、それぞれの島の水防・水利共同体を形成していました。このような例は、国内外を問わずほとんど類を見ないといわれています。
輪中[わじゅう]が形成されたのは江戸時代初期、当然のことながら、「御囲堤」の後、急増しています。いわば「ミニ御囲堤」ということになります。
そして、この輪中地域の開発面積が増えれば増えるほど遊水地や河道は狭められ、さらに水害が増すといった悪循環を繰り返していくことになります。また、山からの土砂が年々川道に堆積し、次第に輪中内より川床の方が高くなっていったのです。
輪中内の農民は絶えず悪水(田の排水)に悩まされ続けました。悪水の停滞によって作物は根腐れを起こし、せっかく開発した新田も耕作不能な低湿地と化していきます。
そして、いったん破堤すれば、言うまでもなく、輪中の中は生地獄[いきじごく]と化しました。
その生地獄が、右表によれば、御囲堤ができてからの300年間(1600~1900)に298回は繰り返されたことになります。
木曽川右岸・左岸の破堤回数
*:御囲堤の建造(1609)
**:宝歴治水工事(1755)
資料)伊藤安男「輪中地帯とその特質」(岐阜県博物館『輪中と治水』)より
表については「住昔以来木曽川流域洪水年月被害形況」「岐阜県治水史」「岐阜県災異誌」「愛知県災異誌」より伊藤安男氏の作成