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享保12年(1727)「木曽川通繪図」(原図は蓬左文庫所蔵)。
(出典:旧編『宮田用水史・附図』)

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昭和初期の宮田用水。
(写真提供:水土里ネット宮田用水)
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水路の改修工事風景。洪水のたびに取水口が破壊され、修復には莫大な費用と労力が要求された。特に、般若用水の取水口は通算4度も位置を変えている。
(写真提供:水土里ネット宮田用水)
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宮田用水の幹線水路網

「御囲堤」の築造は尾張側でも大きな混乱を招きました。それまで尾張平野に流れ込んでいた木曽の派流、五条川、青木川、野府川などが締め切られ、それらの川に依存していた約5000haの水田が水源を失うことになります。

そこで、伊奈忠次は、堤防の完成ととも大野村に杁[いり]※1を設置し、平安以来の大江用水につなげました。そして、上流の岩手村にも杁[いり]を造り、般若[はんにゃ]川を般若用水として整備します。さらに、その後、新般若用水なども整備されました。


しかし、木曽川は河道の変動が激しく、絶えず澪筋[みおすじ]※2が変わったり、杁付近に土砂が堆積して取水が困難となります。やがて大野杁[いり]は宮田村の宮田西杁へ移り、般若用水も水量不足のため、宮田村に取水口(東杁)を設け、新般若用水を開削[かいさく]しました。ここに現在の宮田用水の原型が完成されることになります。

「寛文覚書」(1670年)によると、当時の宮田用水は、335村、水利施設2170ヶ所、用水と交差する橋は大小とりまぜて747に達するという広大な範囲を潤していました。

また、数十年後には後述する木津[こっつ]用水や新木津用水が開削され、これらの用水は、旧河道や排水路などと組み合わされ、一世紀におよぶ様々な軋轢[あつれき]、調整を経て、複雑な水利ネットワークが形成されていきました。

これらの用水はすべて尾張藩が建設し、分水管理も藩が運営していました。これは幕府直轄[ちょっかつ]の見沼代[みぬまだい]用水(関東平野の大用水)とともに日本では例の少ない藩主直営の用水でした。

注目すべきは、藩の初期に「水奉行[みずぶぎょう]」という制度があったことです。江戸時代の地方支配は、郡奉行→代官→庄屋という構造となっていましたが、水奉行は、郡奉行の上座に位置する重要職であり、強い権限を持っていたようです。

藩直営の用水とは言っても、広大な尾張平野を潤すにはとても水量が足りず、また、当時は素掘りの土水路ですから漏水[ろうすい]も多く、いたるところで水不足が生じていました。これらの紛争を解決するため水奉行には大きな権限が与えられたものと推察できます。

したがって、水利体制が確立される1700年代に入ると、水奉行は閑職[かんしょく]化していき、代わって水利普請などを担当する「杁奉行[いりぶぎょう]」が新設されています(1724年)。

また、各用水の要所には、「水役所」なるものが設置され、雑草の繁茂など平素の水管理と見回り、水位の変化や洪水時に備えた対策、用水不足等の調整、田植えから稲刈りまでの情報管理といった、現在の土地改良区とほとんど同じ仕事をしていたようです。

この「水役所」の事務は、明治後、愛知県庁土木課が引継ぎ、明治14年の水利土功[どこう]会まで継続されました。現在は同じ仕事を土地改良区(水土里[みどり]ネット)が行っています。

尾張藩は、たびたびの緊縮財政に見舞われたにもかかわらず、四公六民という年貢徴収[ちょうしゅう]率を変えず、明治にいたるまで農民からの年貢の増徴[ぞうちょう]を行っていません。そのせいか、尾張は、百姓一揆[いっき]の発生していない地域として有名です。

もともと土地が肥沃だったこともあるのでしょうが、こうした藩による緻密な水管理がその豊かさを支えてきたと言ってもいいのではないでしょうか。




※1・・・堤防に造られた水

※2・・・雨のない時でも水が流れている川筋。


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