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木曽三川公園千本松原にある治水神社。総奉行平田靭負が祭神。また、工事の犠牲者となった薩摩藩士80余名も境内の治水観音堂に祭られている。昭和13年、地元の人々によって創建された。 02
宝暦治水、油島締切堤の跡。旧堤防の跡には、薩摩藩士が植えたという千本松原が並木を作っている。左が長良川、右が揖斐川。

我が国の治水至上最大の悲劇と呼ばれる宝暦[ほうれき]治水。

家老・平田靱負[ゆきえ]を総奉行とする薩摩[さつま]義士約350名の壮絶な闘いぶりはあまりにも有名です。

当時の文献では第一期工事は、堤の切所・崩所・欠所の築立、堤上置、外腹付、内腹付、洩水[えいすい]切返し、猿尾[さるお]※1欠所築立、上置、砂浚え、蛇籠[じゃかご]、柵、石堤、まき石、根杭[ねぐい]等・・・。

第二期は、大榑[おおくれ]川の洗堰[あらいぜき]、油島の締切堤防、洲浚[すざら]え、切広、掘割[ほりわり]、猿尾築立、猿尾継足、籠[かご]猿尾、水刎[はね]杭出、堤上置、腹付、蛇籠、まき石、築流堤、砂留[すなどめ]、埋立、砂利留[じゃりどめ]、圦樋[いりひ]普請、悪水掘、投渡橋、田畑掘上掘等・・・(いずれも当時の用語)。

工事は美濃141カ村、尾張17カ村、伊勢35カ村におよび、修理した堤防の延長は実に112km。

宝暦4年(1754)2月に着工し、同5年5月に完成。これだけの工事をわずか1年と1ヶ月で成し遂げたとあります。想像を絶する過酷[かこく]さだったと言われています。

それだけに犠牲もまた激しいものでした。切腹した者51名。赤痢[せきり]により157名が倒れ、病死33名。かかった費用約40万両(現在の金で約300億円)。

木曽川史上、空前絶後の大工事。川と人間の死闘と言っても過言ではないでしょう。

幕府は木曽三川の工事で都合、16回の「御手伝普請[おてつだいぶしん]※2」を全国の大名に命じています。

しかし、木曽川と揖斐川の水位差は約2m。三川を分流しないことには、その根本的解決は望めなかったのです。大榑[おおくれ]川の洗堰と油島[あぶらじま]の締切堤防。この難工事に挑んだのが、薩摩義士の宝暦治水でした。

「御普請所 御めでたく成就[じょうじゅ] 御検分滞[とどこお]りなく相済[あいす]み(中略)まずは頂上の儀[ぎ]に存じ奉り候」。家老・平田靱負[ゆきえ]はそう国許[くにもと]に書き送ると、自ら腹を切り、52歳の生涯を閉じました。


この工事によって恩恵を受けた村は329カ村におよんだとされています。しかし、様々な輪中間の利害関係から完全な分流とまではいかず、上流では、大榑川の洗堰[あらいぜき]によって長良川の水位が上昇し、逆に水害が増した地域も出ています。

岐阜県の柳津[やないず]町では、畑繋[はたつなぎ]堤の史跡も残されています。

長良川の水位が上昇したにもかかわらず堤防の築造が認められなかったため、親子三代にわたって徐々に畑を土盛し、ついには畑と畑を繋ぐ延長1.6kmの堤を造ったというものです。今もこの堤防の跡地には、村のために闘った4人の義人と、命を賭して築造を許可した名奉行・酒井七左衛門を奉る畑繋堤神社が建っています。

他にも、輪中の各地に残された悲話は、数限りなくあります。

徳川御三家筆頭・尾張藩62万石。対して右岸は小藩入り乱れて、最大の大垣藩が10万石(大垣輪中)。

三川の狭窄[きょうさく]部には、川の水ばかりでなく、封建時代の濁流[だくりゅう]も渦[うず]を巻いていたようです。




※1・・・川の勢いを弱めるために設けられた細長い小堤

※2・・・幕府が他の藩に命じて請け負わせた治水などの工事


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