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水路を造るには単に地面に溝を掘ればいいと思われがちですが、道路を造るように簡単にはいきません。

ある村が水路を引く場合を考えてみましょう。


◆近くに大きな川が流れています。しかし、通常、川はその地域の一番低いところを流れているので、ポンプでもない限り、近くの川の水を吸い上げることはできません。川から水を取る位置(水路の入口)は、少なくともその村の標高よりもずっと高いところ、川のはるか上流になります。


◆平野は平らに見えても、実際に村にたどり着くまでには丘があったり、窪地[くぼち]があったりとたくさんのデコボコがあります。それらを避けながら、等高線沿いに徐々に下ってくる水路にしないと、水はその村まで流れてきません。測量機器もない時代、昔の人はどうやって土地の高低を測ったのでしょうか※1


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越前国絵図[慶長10年頃]
色分けされた細かい丸のひとつひとつが、当時の村を表す。)

◆その水路は、自分のところに達するまでに他所[よそ]の村の土地を通ってきます。その村に拒否されたら通せません。通しても、水路によって潰[つぶ]れた土地の補償が必要になります※2


◆そのまま土地に溝を掘っただけではすぐに崩れてしまいます。土手を石垣などで固めたり、水が地中に染み込んでしまわないような工夫も要ります。


◆さて、ようやく水路が引けて、村の田んぼに水が流れてくるようになったとします。しかし、問題は大雨のときです。大きな川には濁流があふれ、こともあろうに自分たちの造った水路をつたって村に洪水が押しよせてくることになるのです※3


◆洪水を恐れて、川から少ししか水が入らない構造にすれば、今度は夏の渇水時に水は取れないことになります。川から水を引こうにも、川の水かさは増えたり減ったりと一定ではないのです。


ざっと想像するだけでも、たいへんな技術と苦労、資金が伴ないます。したがって、実際にはひとつの村が単独の水路を引くということは少なく、ほとんどの場合、複数の村の共同作業になります。つまり、1本の水路を、いくつかの村で分け合うことになります。

しかし、実は、その分け合うことのほうが数十倍もむずかしいことなのです。継体天皇のような強力な権力者がいないかぎり、複数の村が共同で水路を引くなどということは不可能に近かったとも言えます。

その後、この越前平野を千年にわたって苦しめたのは、水を分け合うことのむずかしさでした。




※1・・・1625年に開削された新江用水の記録では、開削者の渡辺泉龍は、夜中に松明を要所要所に立てて、遠い場所から土地の高低を測ったとある。他の用水開削の記録では、大勢の農民が、松明を地面から同じ高さに持って並び、火が一直線に並ぶ場所を探して等高線を探ったらしい。

※2・・・河合春近用水の記録では、潰れ地の補償として、条件の良い土地では米俵を横に並べて敷き、その並んだ分だけの数量を潰れ地の補償として納めることが慣習化していた。条件の悪い場所は、米俵を縦に並べたという(森田町史より)。

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※3・・・現在の水門は鉄製のゲートで取水量を制限できるが、昔は木製の粗末なものであり、洪水のたびに破壊された。また、川を塞き止める堰もやぐらに粗朶[そだ]を置いただけの簡素な構造であり、大水にはすべて流されてしまった。(右写真:越中三叉)




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