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越前平野で最大の水路が、平安時代の天永[てんえい]元年(1110年)に開削[かいさく]されたという十郷[じゅうごう]用水です。九頭竜川に十郷大堰[おおせき]を造って水を取り入れ、延々28kmも水路を掘りぬいて河口荘十郷(本庄、新郷、王見、兵庫、大口、関、溝江、細呂宜、荒居、新庄の十村。いずれも現在の坂井郡)の田、600ha(当時)を潤[うるお]した大用水※1。もちろん、現在もこの水路は現役です。十の村で水を分けることになりますが、さて、それほど公平に分けられるものかどうか。

水は数ミリでも低い土地の方へ流れようとします。十の村がすべて同じ標高[ひょうこう]ということはありえません。また、水路が分かれる部分の断面積がわずかでも違えば、流れる水の量は異なってきます。さらに、その分岐点に岩ひとつでも投げ込めば、水の流れは激変します。上流に位置する村の方が水量が多くて有利です。反対に、下流の村はいつも上流の村がどれくらい水を引いたかを見張[みは]っていなければなりません。水路の幅は六尺一寸とか、水深は三尺二寸一分とか、実に細かい取り決めがなされ、監督官[かんとくかん]のもとに厳重[げんじゅう]な管理体制が敷[し]かれていました※2。それでも、日照りが続き、渇水[かっすい]時になると村々は殺気立ち、あちこちで水争いが発生しました。

平野の開墾[かいこん]が進んでくると、十郷だけが九頭竜川の水を独占することも許されなくなってきます。

十郷大堰からは、新江[しんえ]用水(1679年)、高椋[たかぼこ]用水(1455年)を分水した後、1番堰[せき]から7番堰にかけて磯部[いそべ]用水(十郷用水とほぼ同時期に完成)が分かれ、高椋[たかぼこ]村、春江村と分水してからようやく十郷用水の幹線[かんせん]水路となります。さらにこの後も、兵庫[ひょうご]川へ水を落とす形で分水しています。


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龍神絵馬[文政2年]
大野郡岩屋村が、雨乞い成就のおり岩屋観音堂に奉納したとされる。

わずか十の村から始まった用水は、江戸時代には118ヵ村、実に10倍以上にふくれ上がりました。しかし、水の量は昔と変わりません。渇水時ともなると、あちこちの堰が切って落とされたり、農民数百名同士が鎌[かま]や鋤[すき]を片手ににらみ合ったりと、一触即発の緊張がみなぎりました。

南北朝時代には将軍家にまで訴訟[そしょう]があがっており、戦国期、一乗谷[いちじょうだに]の朝倉氏もたびたび調停[ちょうてい]に関わっています。さらに江戸時代になると、水争いは一段と激しさを増しますが、この平野は福井藩や丸岡藩など諸藩の領地が入り組んでいたため、たびたび幕府にまで裁定[さいてい]を仰いでいます※3。ともあれ、この平野の水配分は1ミリも動かせないほど複雑[ふくざつ]・緊密化[きんみつか]していったのです。




※1・・・600haは平安時代(1160年頃)に記された興福寺領荘園の面積。弘案10年(1287年)には1,167haに増大している。

※2・・・これらは、朝倉氏の時代、天文6年(1537年)に取り決められた規約。それ以前にも、用水路に関する取り決めが幾つかあったらしい。また、十郷用水には舟寄村の西に、横落堰と呼ばれる中流域の調節堰が設置され、ここから下流の村に分水する規定は中世に完成し、各村々に公平に配水されていた(上の十郷用水絵図参照)。

※3・・・十郷用水の末端区域である芦原町内(現あわら市)だけでも、江戸時代、約30回の水利紛争が記録されている。文化10年(1804年)には死者が出て、江戸出訴にまで発展した。




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