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結城秀康

芝原用水のために十郷大堰の一部を開けておくべし。宝暦の紛争で定められたこの裁定でも分かるように、芝原用水、別名「御上水[おじょうすい]」は福井藩53万石の城下町の命綱であり、特殊な権限を持っていました。

徳川家康の次男・結城秀康[ゆうきひでやす]が越前藩の初代藩主になった頃(1601年)、城下町の飲料水と堀用水の確保[かくほ]を主目的に開削されたと言われています。江戸の神田上水[かんだじょうすい](1590年)と並んで日本で最も古い水道ということになります。

芝原用水は、九頭竜川の左岸、十郷大堰の直下から取水し、川沿いに4kmほど下った地点で外輪[そとわ]用水と内輪[うちわ]用水に分かれます。外輪用水は城下町北部の農地を灌漑[かんがい]し、内輪用水は城下町へと引き込まれています。

あくまでも水道用水が主[しゅ]であり、農業用水は従[じゅう]でした※1。左岸側の主な用水はこれだけですから、農民の苦労は右岸(十郷用水など)の比ではなかったのです。

この用水の管理は家老職直轄[かろうしょくちょっかつ]の上水奉行[じょうすいぶぎょう]が担当し、厳重[げんじゅう]な制限下におかれていました。理由なく水に触れたり、手足を洗うことも厳禁、もし違反すれば本人のみならず、村の長百姓も処罰されるという厳しい取締りでした。また、雨水の流入も禁じられており、大雨の時などは村落の用水係が責任を持ってこれを防ぐという取り決めになっていました。


途中、灌漑[かんがい]用にいくつか分水していたのですが、水路幅、分水工の構造などもこと細かに寸法、仕様が定められており、いくら日照りが続こうが、これを勝手に変更することは禁止されていました。中には、上流から材木を流し、分水工を破壊する者もいたそうです。

また、現在の丸山町あたりで分水していた桜用水では、水不足に悩む4ヵ村が処罰覚悟で水路の分水工に大岩を投げ込むという事件を起しています※2

さて、今でこそ都市[まち]には水道管が張り巡らされており、私たちはことさら水路の重要性を感じないまま暮らしています。しかし、当時、城下町を造るといえば、すなわち水路を造ることを意味しました。飲み水、洗濯、風呂、掃除・・・、人間は水なしでは1日たりとも暮らせません。さらに、町では防火、清掃、融雪、あるいは染物などの産業用水として重要な役割を持っていました。幕末の福井藩では、このような水奉行所管[しょかん]の用水が95ヵ所あったと記録されています。

農地や農村と同様、用水が都市[まち]を育てたと言っても言い過ぎにはならないでしょう。




※1・・・志比口の荒橋上流に「分水量御定杭」と言われる杭が用水路の中央に打たれていて、渇水時、流量が減少し、この目印より水位が下がると、農業用水が制限され飲料水の確保が優先された。

※2・・・桜用水に限っては分水工に細かい規定がなく、水面幅で7対3の分水となっており(芝原用水の余水吐)、流量が低下した場合には本流に還流するバイパス水路まで設けられていた。弘化2年(1845年)、この仕組みに耐えられなくなった桜用水の4ヵ村が水路に大岩を投入。奉行所の怒りにもかかわらず、村は岩の引き上げにも応じず、分水工の改善を求めた。ところが、その後の大雨で桜用水が氾濫、取水口まで決壊するという不測の事態が発生。修理に際しては、法を破った制裁金は科せられたものの、用水口を変えろという主張が認められ、農民の勝訴に終った。




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