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これらの水路網の壮大さに比べると、その心臓部であるべき十郷大堰は、数百年間もそのままというあまりにも原始的な構造でした。

少なくとも江戸の中期には、利根川の葛西用水や木曽川の宮田用水で見られるように、大河川からの取水として圦[いり]を使う技術は完成していました。これが越前に伝わらなかったはずはありません。

しかし、おそらくは左岸・右岸、上流・下流の対立に加え、藩領も絡んだ複雑な利害関係によって、この大堰の構造は動かしようがなく、修復の際にも昔からの慣例に従うより方法はなかったのでしょう。

時代は昭和を迎えても、十郷大堰の改良は何度も議題になりながら、様々な事情により実現にはいたりませんでした。


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十郷大堰所取水口(年代不明) 02
旧鳴鹿堰堤(昭和30年完成)

そして、昭和20年、終戦直後の10月。九頭竜川の洪水で大堰は完全に流出します。敗戦の虚脱感と空腹の中で必死の修復作業が行われ翌21年5月に完成。ところが、6月の洪水でまたもや決壊するという不幸に見舞われたのです。

おりしも政府は日本の経済復興と食糧増産の政策をかかげており、十郷大堰の改修は国策としての性格を帯びてきました。福井農民の粘り強い陳情によって、国営九頭竜川農業水利事業が採択され、十郷大堰は鳴鹿堰堤[なるかえんてい]として生まれ変わることになったのです。

堰堤273m、可動ゲート5門を備えた近代的頭首工と両岸の幹線水路。戦後の物資の少ない中で8年の歳月をかけ、ついに昭和30年、夢の鳴鹿堰堤が完成したのです。6ヵ所あった堰はすべて統合され、左岸・右岸における水の必要量も算出、極めて合理的な水の配分が可能となりました。


鳴鹿堰堤[なるかえんてい]。名前の由来は平安時代にさかのぼります。春日神社のお告げを聞いた神官たちが鹿の案内によって導かれたところが九頭竜川河畔。鹿は3回鳴いて、さらに西へと誘導し、春日神社で姿を消しました。神官たちは、鹿の通ったとおりに川溝を掘り、鹿の鳴いた個所に堰を設営。これが十郷大堰であり、掘った水路が十郷用水となったという伝説です。

頭首工の位置は、川幅、平均勾配、沈砂池[ちんさち]、水門の位置などから地形的判断がなされ、地質や地盤、地耐力[ちたいりょく]といった科学的調査から位置が決定しました。京福電鉄の鉄橋より70m下流。そこは、鹿が鳴いたという伝説の場所でした。




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