伊勢平野の礎 ― 平野の特異な歴史と宮川用水の資産性[Basis of Ise Plains]

【第二章】伊勢平野の特異な歴史

1. 神宮領としての歴史

この平野の大半は、荘園時代から伊勢神宮の神領であった。神宮領は最盛期の室町時代には現在の伊賀、奈良、滋賀県とかなり広大な荘園を持っていたが、戦国時代から次第に武将に領地を奪われ、特にこの地域で勢力を誇った北畠氏からは、宮川の境あたりまで神宮に圧力をかけられた。
豊臣の時代になって宮川右岸の神宮領は保護され、太閤検地からも除外されている。徳川幕府も神宮崇拝の姿勢を取り、神宮領地内を無税とする特別処置を続けた。遷宮の費用も幕府が負担してきた。いわば平安時代の寺社系荘園の生き残りとして明治維新まで存続してきたことになる。
江戸時代になって平和が訪れると、各藩は戦のエネルギーをそのまま新田開発に向けた。結果、日本の農地面積は江戸中期には室町時代の頃の2倍に増えている。
しかし、荘園の生き残りとして保護された神宮領にとって新田開発の必要性はなかったと言っても差し支えなかろう。領内は古くから神職による自治組織で運営されるなど治外法権の伝統が強く残っていた。
幕府は領内に「山田奉行所」を置き、裁判や治安維持などの神宮の警護、警察業務、外国船の取締りなどを行なったが、資料によれば、度重なる洪水のため山田奉行は堤防の築造、修復等に幕府の費用を仰いでおり、歴代の奉行はあたかも治水奉行のようであったとある。つまり、治水や利水工事は幕府の管轄であり、神宮側が新田開発のため水路を引くなどということはありえなかった。
加えて神宮領はその必要がないほど経済的には潤っていたのである。

写真:安藤広重「宮川の渡し」

2. 日本一の観光地

世末から近世を通して、日本人にとって伊勢神宮は特別な場所であった。日本各地で伊勢講が組まれ、遠路をいとわず伊勢を目指した。フロイスやシーボルトなど江戸時代に日本を訪れている外国人のほとんどが、伊勢参りをする人の多さに驚嘆している。
江戸中期の記録によれば、神宮の檀家数は約440万軒。1軒を5人家族とすれば信者総数は2200万人にもなる。当時の総人口(約3,000万人)の70%以上という驚くべき多さである。
基本的には人の移動を禁じた徳川幕府も伊勢参りに関しては寛大であった。文政(1830)の伊勢参りでは半年間に約500万人という記録がある。
「伊勢参宮 大神宮へも ちょっと寄り」(川柳)。伊勢参りの目的は、信仰というより物見遊山であったようだ。伊勢の古市には遊郭70軒が立ち並び、江戸や大阪にも負けない花街であったという。
したがって年間数百万人という観光客が落とす金は膨大な額となる。むろん旅行客のための物資、お土産、とりわけ食材は近隣の村から取り寄せた。
年貢として米の貢納はあったにせよ、農民は換金作物、つまり畑作に特化するのが自然の成り行きである。江戸初期(1674)、領内のある農民の記録では、米3.5反に対して、麦・藍・綿が6.5反、その他の野菜を1町5反も栽培している(『伊勢市史』)。
いわば、宮川右岸の神宮領では観光業を主軸とする独立した地域経済圏が確立されており、他の藩のように莫大な費用をつぎ込んで水路を開削し、新田開発をする必要性は極めて薄かったものと想像される。

3. 飛び地としての宿命

ならば、宮川左岸はどうであったか。前述したが、この平野は洪積台地であり標高が高い(玉城町の市街地で約20m)。それに宮川左岸一帯は紀州藩の飛び地であった*。
紀州藩は八代将軍吉宗以来「紀州流」工法で関東平野を沃野に変貌させた天下一の水利技術を持っている。江戸中期、すでに紀の川沿いの平野では延長27kmの小田井堰(かんがい面積1,100ha)、延長20kmの藤崎井堰(かんがい面積840ha)といった今も現役である大きな用水を幾つか築いている。
紀州藩55万5千石は紀州本藩37万5千石に対して、松阪領8万石、白子領5万石、そして宮川左岸の田丸領は5万石。田丸城(玉城町)は俗に田丸藩と呼ばれるが紀州藩の付家老の城であり、城主は代々和歌山に住み、所領は田丸領のうち1万石。知行地とはいえ民生、土木、領内の行政や裁判は本藩の管轄であった。

図:勢州の田丸領(地形図作成:カシミール3D)

実はこの左岸の洪積台地にも水を引く大計画を立てた人物がいる。吉祥寺村(現玉城町玉川)の庄屋・見並惣大夫。彼は1821年、宮川上流の度会町長原より水路を引き、山を越えて田丸領へ水を引くという壮大な提案書を藩に上申している。計画書では人夫数(約25万人)、工事費(約1万両)、事業効果等々、微に入り細にわたって具体的に述べられており、すぐにでも実行可能であった。
しかし、隣の丹生村(現多気町)では、人夫27万7千人、総工費1.6万両という藩直営の大工事が進捗していた。立梅用水(1819~1824年)である。
惣大夫は立梅用水に刺激されてこの計画を立案したのか、それとも以前からの計画を藩に上申した時期が運悪く立梅用水と重なったのか定かではない。しかし、いかに徳川御三家紀州藩とはいえ、このような巨額の工事を続けて行なう資力はなかったのであろう。
いずれにせよ、宮川の河床が低いという地理的要因に加え、右岸は神宮領、左岸は飛び地であったという人文的要因も、この地の水利開発を妨げた大きな要因と言えるのではなかろうか。

  • *紀州領は紀伊半島をぐるりと取り巻いており、領地は陸続きである。しかし隣の新宮領とは海や険しい山地で隔てられており、街道の人の往来、紀伊・伊勢と国名や風土の違いを考慮すれば、大和国を隔てた伊勢領は事実上の飛び地であった。
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