伊勢平野の礎 ― 平野の特異な歴史と宮川用水の資産性[Basis of Ise Plains]

【第四章】宮川左岸(紀州領)の溜め池群

1. 貧乏川


写真:外城田川の旧井堰

宮川の水が引けない左岸側の洪積台地(紀州領)は、水源を溜め池や外城田川、三郷川、佐奈川といった細流に求めた。したがって、井堰による川からのかんがい面積はわずか514haに過ぎない。
外城田川は田丸領内では宮川に次ぐ大きな川とはいえ、流路延長は約13km。水源は地元の国束山地であるから宮川と違って雨も少なく流域面積も小さい。少しでも日照りでもたちまちのうちに川は枯れてしまうため地元では「貧乏川」と呼ばれていたらしい。
昭和32年(国営宮川用水事業の開始)時点で、この貧乏川には16ヶ所もの井堰があった。さらに驚くべきことに、この外城田川の支流である三郷川(流路4~5km)には37ヶ所の井堰があったという。
櫛田川の支流である佐奈川も流路は10kmに満たない小川であるが、この川にもたくさんの井堰がひしめき合っていた。
これらの小さな井堰群には、堰の構造(多くは土嚢堰)や取水量をめぐる細かい掟があり、トラブルは絶えなかった。

2. 溜め池群

川が利用できない集落は溜め池に依存した。宮川用水で計画に取り入れられた大きな溜め池は全部で33ヶ所。かんがい面積は1,388ha。これらの溜め池はほとんどが江戸時代に築造されたものである。これ以外の小さな溜め池群を合わせれば、河川かんがい面積の3倍を超える水田が溜め池から取水をしていたことになる。
興味深い溜め池の概要をいくつか挙げてみたい。

a)集落移転を伴った大溜め池 五桂池


写真:五桂池

五桂池(現多気町五桂)は三重県でも第一級の溜め池である。紀州藩が領内の人夫を集めて築造(1678年完成)したもので、工事に際しては25軒の農家を強制移住させている。四国の満濃池など山間ダムのような溜め池ならともかく、このような平地のいわば皿池に近い溜め池で集落移転を伴った例は数少ないのではなかろうか。
この溜め池の下流には13ヶ所の井堰が造られており、下流の村からは五桂村に年々「池敷辨米」(潰れ地の補償)を納めてきた。

b)73年間も続いた水飢饉 斎宮池(槇谷池)


宮5ヵ村(現明和町斎宮他)は、元は神宮領であったが1602年に紀州領となり惣田池(同年築造)を造った。ところが1676年に5ヵ村は再び神宮領に戻ることになり、惣田池は紀州領であるため水が利用できず、村は辛酸を極めた。神宮も徳川御三家の威光を恐れて進捗せず、山田奉行所にも陳情を繰りかえしたが打開策はなかった。しかし、内宮の庄屋が百方奔走し、遂に1748年、紀州藩の許可を得て、惣田池の隣に80haを潤す斎宮池を造った。神宮領に戻って以来、73年間も水飢饉に耐えてきたことになる。
なお、この斎宮池と惣田池は、宮川用水第二期事業において斎宮調整池として改築された(詳細は本編)。

c)実らなかった8kmの水路 大谷池



写真:大谷池

田丸城下のすぐ東に位置する妙法寺村・中楽村・湯田村(現玉城町)も水に恵まれず、干ばつのたびに泣かされてきた。農民たちは集落のはるか南に位置する国束山系の山中に溜め池を造ることを発起した。夜が明けぬ間から星がまたたくまで山中に通いつめ、当時の子供たちは「親の顔を知らなかった」と伝えている。1826年、苦心惨憺のあげく溜め池と8kmに及ぶ大用水が完成したが、水路の水漏れが激しく村までは水が届かなかった。この大谷池は岩出村が譲り受けた。それ以後、妙法寺らの村々は方々に小さな灌水用の池を掘って、水を汲み上げるほかなかったのである。

d)耕作放棄地のため開墾した池 泉貢池(宮川用水受益地外)


積良村(現玉城町積良)は水田の水を細い沢に求めていたため、水不足などで潰百姓が続出した。1773年から20年間に戸数は35軒から28軒減少し、そのうち9軒が潰百姓であった。このときの荒れ地の高は22.4石であり、1軒で1俵分も余分な年貢米を出さなければならなかった。村の年貢高は太閤検地を基に決まっており、荒れ地になった田畑の年貢分は村で負担しなければならなかったのである。このため、村では溜め池の築造を願い出て、村民総出で泉貢池を築きあげたという(1836年)。
他の溜め池にも農民の苦労を物語るエピソードが多く残っている。それぞれの溜め池によって初抜き、落水、配水量等の厳しい制約があった。溜め池の権利も下流の集落が持っていたため、池のある集落の湛水被害もトラブルの原因になった。干ばつ時にはあちこちで紛争が起き、流血の惨事もしばしば見られた。
紀州藩は、六公四民という過酷な年貢を幕末まで続けている。左岸の農民の苦しみは現代では想像もつかないであろう。
玉城町宮古にある汁谷池は谷間に約115m幅の土手を積み上げた巨大な溜め池であるが、それができるまでは、農民は谷川から毎日水を汲み上げて田に注いでいたという。その苦労を忘れまいと、今も5月の浅間祭では「水汲み歌」が歌い次がれている。


ちなみにこの集落は1761年の検地帳では戸数49軒(248人)であったものが、汁谷池が完成した36年後の1855年には戸数74軒(364人)に増えている。水の威力を物語って余りあろう。

コラム:夏草の「泣き日待ち」



写真:泣き日待ちの行事食

五桂池の築造に際して、5軒の家族が夏草(現志摩市磯部町夏草)に移転させられた。
この村では350年近く経った今も毎年五桂を去った日(11月16日)を記念して当時の先人の苦しみを偲ぶ「泣き日待ち」という行事を続けている。昭和53年には開村300年を記念して、五桂に住む人たちを招いて記念式典を行なったという。「日待ち」とは、吉日の前夜より潔斎し寝ないで日の出を拝む行事。全国各地で見られたが、350年前から続けているのはこの夏草集落だけではなかろうか。
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