伊勢平野の礎 ― 平野の特異な歴史と宮川用水の資産性[Basis of Ise Plains]

【第五章】明治の苦しみ

1. 神宮領の終焉


写真:今も色街の面影を残す伊勢市古市の街並み

神宮領が経済的に豊かであったことはすでに述べたが、その繁栄を支えてきたのは何と言っても御師の存在であった。御師とは、地方へ出向き伊勢暦や御祓を配ったり祈祷を行なったりする神職のことで、今風に言えば神宮のセールスマン、旅行会社、大手旅館業を兼ねた存在であった。日本全国津々浦々どんな小さな村でも伊勢講が組まれ、年間数百万の参拝客が訪れるようになったのも彼らの働きが大きい。有力な御師になると大名に取り入るなど檀家数は10万~30万軒にのぼり、小大名をしのぐ財力を誇っていたという。こうした御師は旧伊勢市内で最盛期は800軒を越えていたと推測されている。その御師の活動が明治4年に禁止となったのである。御師の活動もなくなり、近代国家の成立によって伊勢参りの熱も冷めたらしい。明治以降、参拝客は100万人前後にとどまっている。
さらに同年、明治政府は神宮をはじめとするすべての寺社の領有地(境内を除く)を取り上げた。神宮林は残されたものの、収入は激減した。
さらに領内の農民に打撃を与えたのが明治6年に施行された地租改正である。この地租はこれまでの年貢よりはるかに高いものであったらしい。
地租改正をめぐっては明治9年、伊勢暴動が起こっている。松阪市に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対の一揆であり、受刑者は5万人を超えるなど当時最大規模の騒擾事件となった。旧伊勢市内でも92戸の焼失、27戸の破壊、外宮にすら火の手が回ったという。
多かれ少なかれ神宮領経済の恩恵を受けていた領内の農民はその特権を失い、いわば紀州領の農民と同じ条件になったことになる。
余談ながら、明治39年の旧伊勢市の水田面積はわずか343haしかなかった(『伊勢市史』より)。その水田の水源は数百ヶ所にあった自噴井であったが、昭和19年、20年 続いた東南海大地震により地盤が沈下し、使用不能となる井戸が続出したり、塩害が日増しに増えていった。

写真:「三重県下領民暴動の図」(月岡芳年画)。
提灯には山田村(現伊勢市)の文字も読める。


2. 一日18時間の重労働


写真:水車

宮川用水が完成するまでは、宮川沿岸のデルタ地帯では実に192ヶ所で小規模な揚水機が乱立し、揚水機のみによるかんがい面積は1,186haもあった。
また、ハネツルベの数も900に及んでいた。古老の話によれば、ハネツルベは夜中の2時から朝の8時までの6時間と、午後の2時から8時までの6時間を灌水作業にあてるのが普通とされていたらしい。灌水の作業が12時間、普通の農作業が6時間、計18時間の重労働である。
しかし、この地下水の水温は14~17℃であり(稲作の適温は24~26℃)、青枯れや萎縮が起こって常に冷害を被っていた。さらに自噴水を汲み上げれば汲み上げるほど地下水層の圧力が低下し、塩分が次第に増加するという悪循環が起こっていた。

3. 死ぬより野依 ―― 日本最初の揚水機


写真:水車

豊浜村(現伊勢市西豊浜町)では明治末期から毎年2月6日を「灌水記念日」として定め、小川徳三郎翁の遺徳を称えてきた。
この村は外城田川の下流にあるが、外城田川は日照りが続けば川は枯れるという「貧乏川」であった。このため村では井戸水を汲み上げて稲穂を守った。その過酷な労働は筆舌に尽くしがたく、「死ぬより野依」(野依は豊浜村の字名)とも言われたほどである。
明治後期、小川徳三郎翁はこの村の依頼を受け、巨大な井戸を掘る。その傍らで石炭を焚き、蒸気機関を利用して45haの水田を潤す大規模な機械揚水を行なった。
これが我が国最初の機械かんがい施設らしく、その記録は今も農林水産省の倉庫に保管されているという。明治39年のことである。

4. 史上初の宮川利水


写真:小川徳三郎顕彰碑(伊勢市西豊浜町)

豊浜村の大規模なポンプかんがいはたちまちのうちに話題となった。これに真っ先に飛びついたのが岩出集落(現玉城町岩出)である。宮川が平野部に出る位置に位置する岩出は河床までの落差が10m近くあり、近くには川らしい川もなかった。したがって、地区の大半が荒蕪地であった。
この村の注目すべき点は、大規模な揚水機場を設置すると同時に、地区内の耕地整理事業に着手したことである(明治41年)。デルタ地帯の揚水機がほとんど個人か小さな組合程度の所有であったことを思えば、この村の取水計画と耕地整理は特筆すべきであろう。
この先駆者の慧眼にもかかわらず、昭和の初期、下流地域の砂利採取の影響を受けて河床低下が著しくなり、遂にポンプは停止のやむなきに至った。大半の土地は政府の奨励もあり桑畑に転換した。
ところが、太平洋戦争の激化に伴う食糧増産対策のため農地開発営団の手によって再び宮川の電動ポンプ取水と開田事業が実施されている。
これが歴史上、伊勢平野において宮川の水を農業用水に利用した最初の事例であろう。
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