常願寺川  農人の記憶  ― 山をも流した河[Jyouganji-River  Memory of the Farmers]

【第三章】見事な水路網

農民支配は農民に

加賀百万石と言うが、加賀の国が100万石であったわけではない。前田家は加賀、能登、越中を領する大大名であり、その合計が100万石、つまり正確には前田家100万石である。しかも実際の石高は越中が約半分を占め、能登と加賀が25%程度であったという。
前田家は初め120万石であったが、三代藩主利常の時に富山藩10万石、大聖寺藩7万石を分家している。富山藩といっても領地は平成合併前の富山市の一部と八尾町をあわせた程度で、富山県の大半は加賀藩に属していた。
常願寺川の水を引いた農地だけでも約8万石と中大名並みの石高があり、その内、加賀藩の領地が6.7万石、富山藩は1.2万石に過ぎなかった。

加賀藩・富山藩には「十村」というこの地独特の制度があった。十村とは加賀三代藩主・前田利常が設けたとされており、文字どおり10程度の村を束ねる役どころ。農民の身分ながら藩から扶持も与えられ、年貢の徴収から農事の年間スケジュールなど農政一切を任された、いわば農民代官ともいえる存在である(身分は改作奉行の下に位置)。
これは前述した一向一揆とも深く関係している。十村となったのは大庄屋であり、門徒の指導者として各地域を仕切ってきた経験を持っている。つまり、「百姓の持ちたる国」の自治組織をそのまま活かし、農民の支配を農民に任せたのである。
江肝煎という用水路の監督役もいた。用水の取り入れや分水を取りさばく役で、これも農民に任せた。その代わり藩では、用水や堤防の修理、管理に関して事細かな法令を定め、用水路の構造、堰の竹かごや土俵の調査項目、各用水の取水比率などを微に入り細にわたって規定した。

最下流の用水が支配権

図1 明治以前の用水網

左、図1が常願寺川における藩政期の用水とその開削年を記した図である。土地では、右岸側を常東といい、左岸側を常西と呼ぶ。常願寺川の東西を意味する。
この図を見ると奇妙なことに気付く。常東下流域にある利田用水の開削が南北朝時代と最も早い。続いて、江戸時代初期に三千俵用水、仁右衛門用水、秋ヶ島用水とだんだん上流部が開発されていく。通常の扇状地では上流の水路から開削されていくのに対して、この地では逆である。

これは当時の常願寺川の中流部(扇頂部)はまだ川床が低く、岩峅寺あたりでは谷のようになっていたせいであろう。さらに常東の扇状地は台地のように高くなっており水田としての開発は遅れた。
常西は総じて開発が早い。江戸期以前の16世紀にはすでに太田、清水又、筏川などの用水網が出来上がっている。この扇状地は全体的に常西が低くなっており、洪水に襲われやすい分だけ、逆に水は引きやすかった。
さらに奇妙なことがあった。この川から取水している各用水では、あろうことか最も下流に位置する広田針原用水が常東、常西を問わず分水の指揮権を持っていたのである。
元禄13年(1700)における各用水の水量割りを見ると「秋ヶ島用水 但し分水節通り川、内五厘五毛分量分けを以て水相渡し、残り九分四厘五毛広田針原用水へ水取下げ申す旧格に御座候。釜ヶ渕用水 但し分水節通り川、内三厘分量分けを以て水相渡し、残り九分七厘広田針原用水へ水取下げ申す旧格に御座候……」などと、すべての用水の取水量が細かく規定してあり、残りは広田針原用水へ流すようにとに指示がしてある。
さらに渇水時になると、広田針原用水の申し出と指揮によって、分水、皆落とし水、内輪番水、大番水といった節水体制が敷かれた。
広田針原用水の受益地は加賀藩の領地であった。

*最上流の秋ヶ島用水を開削したのは板屋平四郎である。平四郎は辰巳用水や能登の千枚田を開発した加賀藩の天才的技術者。辰巳用水はサイフォンの原理を利用して金沢城の堀や兼六園の池の水を引いていることでも名高い。


稀有の平等精神

この用水に藩から分水指揮権が与えられたのは延宝3年(1675)とあるから、与えた藩主は第五代藩主前田綱紀。徳川光圀、池田光政とともに江戸三大名君と評される人物である。後世「加賀百万石」としての絢爛たるイメージは綱紀の治世を指すと言ってもよい。いわば加賀藩の絶頂期であった。
それにしても、最も取水条件の悪い最下流の用水に分水や番水の指揮権を与えるというのは、なんと博愛平等の精神に満ちていることか。これができないために、他藩では悲惨な水争いを繰り返してきたのである。
これは用水が下流から開発されてきたこととも関係があろう。通常の川なら、古くから開発された上流の堰が大きな権限を持っている。「川上三寸、牛にでも頭を下げろ」といった俚諺が残るほど上流は強い。
もっともこの地でも水争いがないわけではなかった。石合戦や村の肝煎が川に投げ込まれたといった記録は残っているが、その程度のことであった。この地の水路に関する平等精神は、明治になっても「常願寺川通各用水分配方協議取極」「共同水分配方仮協定」「常願寺川東西用水分水契約書」等、一貫して継承されている。日本農政史上、極めて珍しい事例と言えるのではなかろうか。
浄土真宗を興した親鸞聖人は徹底した平等主義の人であった。水路の平等は、この地に斃れし幾万という一向宗徒が残してくれた唯一の財産だったのかもしれない。


新川郡常願寺川筋御普請所分間絵図[天保7年]
富山県立図書館所蔵 出典:『越中立山大鳶崩れ』

  • ※ページ上部イメージ写真 : 新川郡常願寺川筋御普請所分間絵図[天保7年] 富山県立図書館所蔵 出典:『越中立山大鳶崩れ』

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