常願寺川  農人の記憶  ― 山をも流した河[Jyouganji-River  Memory of the Farmers]

【第四章】立山の異変

安政の連続地震

安政5年(1858)2月13日、大地の鳴動があったらしい。新暦で言えば3月末日。厳しい北国の寒さも和らぎ、富山城の桜がちらほら咲き始める頃か。
人々は不審を抱いたという。無理もない。安政年間は各地で大地震が起こっていた。
江戸初期からの伝統を持つ富山の薬売りは全国津々浦々出向くことで知られている。これらのニュースが伝わらなかったはずはなかろう。特に、江戸大震災に際して幕府は加賀藩に15万両という莫大な借財を命じていた。

カルデラの崩壊

立山大鳶山抜図 富山県立図書館所蔵
出典:『越中立山大鳶崩れ』

果せるかな、2月26日未明の2時頃、大地が裂けるような激しい揺れとともに立山のほうで大音響が聞こえたという。富山城では石垣が崩れ、土塀も倒壊、大木は根こそぎ倒れた。大地は裂け、水噴き出し、砂をもみ上げた。全壊家屋150軒、半壊400軒、死者40~50人。

この飛越地震はマグニチュード7.0。特に飛騨地方の被害がひどく死者は203人に及んでいる。
同じ安政年間に起きた他の地震に比べれば、富山では地震そのものの被害はそれほどでもなかった。しかし、この時、立山山中ではありうべからざることが起こっていた。

岩峅寺衆徒の報告によれば、暗闇の中で朝を待って川筋を調べたところ、流量は通常の5分の1ほどしかなく、「山抜け」に相違ないと思ったとある。
2日後、人足たちと山へ登り、奉行所宛てに詳しい報告書を出している。その主なものを拾うと、大鳶山、小鳶山が崩れ、立山温泉は跡形もなく大量の土砂に埋まっていた。さらに、数合山、雷電ヶ嶽、鬼ヶ城の西斜面も残らず抜け落ち、土砂が真川(常願寺川の上流)へなだれ込んで高さ500~600メートルの山をなしている。また、狩込池の東では大火事のような煙が立ち上がり、いまだ地響きが続いている。

要するに、立山カルデラという火山陥没地の脆い山の斜面が広大な範囲にわたって崩れ落ち、常願寺川の上流である真川や湯川をせき止めてしまったのである。

それから1週間ほどは何もなく過ぎた。しかし、常願寺川の流量が5分の1しかないのである。誰彼ともなく山津波が来ると騒ぎ出し、藩主や家中の侍たちは呉羽山に避難し、城下の町人たちも家財を捨てて避難した。

粥のごとき土砂の濁流

洪水時の常願寺川
写真提供:立山カルデラ砂防博物館

先の地震から半月ほどを経た3月10日(新暦4月22日頃)だった。桜の花も散り、暖かい日が続いていたという。

突然、立山の全山が崩壊したかと思えるような激しい地鳴りがしたかと思うと、「川筋一面の黒煙が立ち上り、みるみるうちに大岩小岩、大樹、森羅万象押し出され、右押し出せる内には水は一滴もなく、皆固き粥のごとき泥砂にて、その内大小岩相交じり、また岩と岩とが衝突して砕け時々黒煙立ち上り、葦峅寺までは20~30間(36~54メートル)ばかりの大岩を押し出して、2、3里下の横江村辺では7~8間(13メートル前後)の石を押し出し(中略)なかんずく廻り6~7尺の樫の木に猿2匹がすがりながら葦峅辺より半屋村まで4里あまり流れ来たり。その木そのまま今も川中に立てり。実に万代未曾有の変事なり」(『立山変事録』一部意訳)。

この土石流は今の大日橋あたりから右岸の舟橋村を直撃し、白岩川をつたって水橋の港を襲った。

水橋の港では膨大な流木が押し寄せ、その下へ土砂が潜って大渦巻きが起こり、なにやら鯨のような得体の知れぬ生き物が渦の中で青白い炎を吐いたという怪奇現象も報告されている。

岩峅寺では神殿が山のほうへ50数メートルも押し上げられ、その上流にある葦峅あたりの広大な川原は土砂に埋まり、高低なく一面平らになった。上滝に流れ着いた大岩は長さ約30メートルもあり、馬瀬口あたりは川と堤防が同じ高さになったという。

常願寺川一帯の田畑は黒い粥のごとき泥砂の大海原と化し、流され壊された家屋数知れず、また水路の大半は潰されてしまった。死者38人と某記録にあるが、この時の被害はよく分かっていない。

そして、その1ヵ月半の後、常願寺川流域は再び未曾有の大災害に襲われるのである。
  • ※ページ上部イメージ写真 : 洪水時の常願寺川 写真提供:立山カルデラ砂防博物館

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