常願寺川  農人の記憶  ― 山をも流した河[Jyouganji-River  Memory of the Farmers]

【第五章】恐るべし山津波

「泥抜けの気遣いこれなき候」

3月10日の山津波は午後4時頃になって引いたらしい。しかし、翌日、また「城下残らず川底となるべし」との噂が飛び交い、武士町人は狂気のごとく東奔西走、城下は火事か戦のような大騒ぎとなったという。
さすがに加賀・富山の両藩主も再び山の調査を命じた。
この時の報告書によれば、堰き止め湖はすべて流れ去り、真川の水も滞りなく流れて「この末再び泥抜けの気遣いこれ無き義と存じ奉り候」と結んでいる。そして、城下に安全宣言を発令した。
4月といえば今の新暦で5月半ば。しかし、田植えどころではなかった。ことに壊れた水路の補修に数多くの農民がかり出されていた。「三ヶ村用水、次に太田用水普請四月七日より十日が間、七万八千人の人足なり」などと記録にある。おそらく老若男女を問わず村中の人々がこの一面の泥海の後始末をしている最中であった。
そして、1ヶ月半の時が流れた。ようやく村人の顔に落ち着きが見え始めた頃であった。

恐るべし 山津波

人物画『地水見聞録』より
富山県立図書館所蔵
出典:『越中立山大鳶崩れ』

4月26日(新暦6月9日頃)。正午過ぎ、またもや立山から大鳴動が聞こえた。
そして、天を突き上げ、地を逆巻きながら真っ黒な濁流が怒涛のごとく押し寄せ、ほとんど一瞬にして常願寺川流域を飲み込んでしまったのである。今度は真川ではなく、湯川を塞いでいた土砂であった。
この土石流は前回よりも6メートルほど高かったらしい。岩峅寺の立山権現は川底から約24メートルの高さにあるが、本社の床まで水がつき柵が流された。「河下は水盛には両ふち共に川も岡もなし。瞬時に泥海也」。

冒頭で書いた大場の巨石は、この時流れ着いたものである。また、その対岸の西大森には幅15メートル、長さ29メートルというとてつもない大岩が今も土手にはまっている。山中、真川と湯川の合流点にあったものが西大森まで流れ着き、ここで土手の崩壊を防いで村は助かったらしい(現在も水神が奉ってある)。
ともかく、いかなる大石も巨木も、また、家であれ蔵であれ納屋であれ、鍋釜、桶、箪笥、長持、屏風、斧、茶碗、皿、ひき臼……、物の軽重を問わず一面に浮き上がった。人や牛馬は言うに及ばず、犬、猫、鼠、狸、鶏、蛙、蛇……、生ある者はすべて浮かび上がって流され、「森なき処には森が出来、森ある処は川となり山となる」。家ごと流され2階から泣き叫ぶ家族。生きて流れ着いた人も髪の毛は全部抜け全身寸分の隙間なく傷だらけだったという。人も泥、犬も泥、家も蔵も道も田も、森羅万象すべて泥にまみれてしまった。凄絶の極みとしか言いようもない。

奇怪な現象も幾つか目撃されている。水橋では濁流に巻き込まれた家々や舟20艘ばかりがもみ合い沈みながらも火を噴き上げたこと。腰の高さの水流に2メートルもの岩が流されてきたこと、70坪ほどの田んぼが畦もろとも浮かびながら流れていったこと。あるいは、一尺ほど水に浸かったところは立木が残らず枯れてしまったこと等々。

伝承ながら生々しい光景である。

この大災害による家屋流失は常西側が5倍以上の損害となっている。濁流は鼬川の橋をすべて壊しながら神通川へと流れ込んだ。新庄村では400軒の内200軒が流失、新庄新町では130軒の内、残ったのはわずか3軒だけ。広田針原用水を修理していた人足・農民370人が即死、助かったのはわずか4、5名だったとある。
この2回にわたる泥洪水がもたらした被害は、加賀藩では流失家屋1,612軒、死者140名。被災者8,945名。2万5,800石の水田が荒廃。富山藩では7,380石の水田が壊滅。死者の数は不明だが、1,000人はくだるまいとも言われている。
川は濁り、井戸は埋まり、飲み水は10キロの道を往復したという。
この岩砕流は3月10日から始まり、6月下旬まで9回に及んだらしい。

安政大地震常願寺川出水図[安政5年]
滑川市立博物館所蔵 出典:『越中立山大鳶崩れ』

上の「安政大地震常願寺川出水図」の被害区域を現在の地形図で再現した想像図

常願寺川の変貌

この10年程前、長野の善光寺でもほとんど同じような山津波が起こっている。1847年3月24日(新暦5月8日)。マグニチュード7.4。折から御開帳の期間であり、7、8千人の客で賑わっていたが、生き残った者は1割だったという。その際、岩倉山が崩れ、犀川を堰き止めた。雪解けも重なってこの堰き止め湖は30キロ上流まで延び、数十ヵ村が水没。その20日後に決壊した。死者は1万~1万3千人。また、松代では四万ヶ所以上の山崩れがあったらしい。

この地も前述した日本列島が折れ曲がった構造上に位置している。
運不運ではあるまい。地形的宿命と言うべきであろう。

いずれにせよ、この山抜けをもって常願寺川は、川としての性格をすっかり変えてしまった。新川と呼ばれていた頃(806年)から幕末の1,060年間に記録されたこの川の洪水は47回。ところが明治大正の60年間で46回と追いついてしまう。

立山町西大森の大石
石の周囲の長さ約32.4メートルもあるとされる巨石。大部分は地中に埋没し全体を見ることはできない。安政5年4月26日の洪水で現在の位置に流れ着いた。この石によって水勢が西向きに変わり、西大森より下流右岸の洪水被害を少なくしたことから、村民から護岸の神として祭られるようになった。

安政の山抜け以来立山カルデラの崩壊はとどまることを知らず、川床が周辺の田より3.5メートルも高いという天井川を形成し、復旧の間もなく雨のたびに暴れ狂い、もはや県はなす術を失ってしまった。
とりわけ明治24年7月19日の大洪水は単なる集中豪雨だったにもかかわらず、山津波の再来を思わせた。岩峅寺村の水位は約5.6メートルを記録。堤防は八ヶ所にて合計6.4キロメートルを破壊、道路・橋梁を壊して約700ヘクタールの田畑、1,000軒余りの家屋を流失させた。
時の県知事森山茂は直ちに上京、70日間に及ぶ粘り強い説得をもって国庫補助の承諾を取り付けた。

そして、政府はひとりの男を派遣する。名はヨハネス・デ・レーケ。後に近代治水の父とも称されるオランダ人技師であった。
  • ※ページ上部イメージ写真 : 安政大地震常願寺川出水図[安政5年] 滑川市立博物館所蔵 出典:『越中立山大鳶崩れ』

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