常願寺川  農人の記憶  ― 山をも流した河[Jyouganji-River  Memory of the Farmers]

【第六章】デ・レーケと本邦初の合口事業

お雇い外国人

ヨハネス・デ・レーケ

明治政府は、日本の近代化にあたって教育、医学、法律、土木など各分野の専門家約200~300人を欧米から招聘し雇用した。土木分野はオランダ。干拓の国オランダは治水技術に長けており、デ・レーケもその一人であった。
夏目漱石は後年こう語っている。「欧州の国々が百年かけて獲得したものを、我々は十年間で達成しなければならなかった」。近代土木の祖・古市公威は仏留学時代、あまりの勉強ぶりを見かねて「少しは休め」と忠告する下宿の女将に、「僕が一日休むと日本は一日遅れます」と答えたという。日本中に「国を建てる」という壮絶な気概が漲っていたに違いない。
この当時の西洋科学(技術)というものへの信頼は、今日の私たちでは想像できないほど高かった。今の金額に直せば9,000億円という巨費を投じた琵琶湖疏水も、設計は大学を出たばかりの23歳の若者・田辺朔郎に任せている。

デ・レーケの計画

明治24年、デ・レーケは富山に入る。そして、彼は約1ヶ月をかけて詳細な調査を行なった。余談だが、彼は富山を去る時、岩峅寺にあった阿弥陀如来像が欲しいと再三懇願している。短い調査期間にもかかわらず、川だけでなく地元の文化まで調べていたことを示すエピソードである。
また彼は、越中平野の美しさと肥沃さを賞賛しながら、なぜこの地の人が貧しいのかも社会構造の面から分析している。小作農が多いこと、河川の誤った管理、河口整備の必要性、農地の細分化と劣悪な労働条件等々。単なる技術屋ではなく、高い見識を備えた経世家であったことが窺える。
さて、その彼の立てた常願寺川治水計画はおよそ以下のようなものであった。

①堤防の構改築
彼の設計した大幅な堤防改修計画をもとに、数ヶ所の堤防の復旧や改築、護岸工事、築堤を行なうこと。
②下流の流路変更
河口近くで大きく東に屈折し白岩川へ合流していた川筋を直線化し、白岩川と切り離した広い河口を造ること。
③左岸における12本の用水の合口
合口とは複数の取水口をひとつにすること。左岸にある12の用水を一元化し、上流に統合取水口を造ること。

③はさすがに慧眼という他ない。この時代、常願寺川には23ヶ所の取水口があった。流れの強い左岸も多くの取水口があったため流れが滞り、土砂が堆積して川床を高めている。それゆえ氾濫が起きやすくなる。ゆえにデ・レーケはこの用水群を1本にまとめ、取水口を上滝(扇頂部)へ移動させるという計画を立てたのである。

しかし、これは無理難題に近かった。江戸後半期、新田開発などで水路の平等権はすでに反故と化している。安政の山津波以来、毎年のように襲われる大洪水でいずれの村も塗炭の苦しみを舐めており、自分の用水の死守は当然の権利であった。第一、6,000ヘクタールに及ぶ水田、十指に余る用水網の統合など日本史上例がない。どうやって各々の用水に公平な分配をするのか。

加えて、農業水利など土地改良の工事は地元農民の負担がともなう。赤貧の暮らしを強いられている農家から、工事の負担金など集めようもなかった。
県による必死の説得、国への切々たる陳情……。誰もが命がけで議論し、捨て身で事態の打破に向けて働いた。

事業費は県の総予算を超える巨額なものであったが、ついに国庫補助を取り付けることにも成功。さらに、用水の統合は(土地改良事業ではなく)常願寺川改修工事として行われることが決まり、地元の費用負担は著しく軽減されることとなった。

かくしてこの川は日本が範として仰ぐ碧眼の技術者に委ねられることになったのである。

農民の苦闘

確かに、白岩川との分離、常願寺川の直線化は画期的であり大きな功を奏した。これ以後、河口付近の洪水は激減している。
しかし、常願寺川の凶暴ぶりは収まるべくもない。明治25・27・28・29・30・31・43年と堤防は決壊。とりわけ大正3年は氾濫面積5,000ヘクタールを超す大水害となった。常西合口事業はどうなったのであろうか。

「筆舌に尽くしがたい」とは軽々に使うべき言葉ではない。しかし、彼ら常西合口用水の苦闘ぶりは幾万語を費やしても語れる次元のものではなかろう。
取水口は上滝の上流。岩壁に穴を穿ち、116メートルと650メートルのトンネルを通して、幹線水路(12キロメートル)に導水するものであったが、その工事は難関を極め、完成は予定より大幅に遅れた。取水口は鉄柵を施して巨石の侵入を防いだものの早くも完成した年に土砂で埋まって通水不能。門扉の設備や吐水門もほとんど破壊されてしまい、旱魃の被害が続出。
やむなく県はデ・レーケを再び呼び戻して対策を立てた結果、取水口をさらに上流に移し、約90メートルのトンネルを掘ることで決定。早速、新隧道の工事に取りかかるも再び工事は難航、ようやく完成するもまた翌年の数度におよぶ洪水で新隧道は埋没。乗越堤も破壊されて取水は絶望的となり、広田村は収穫皆無となった。
さらに翌年には常願寺川本流の堤防が破壊され、富山市は大水害。その次の年は、昨年を上回る大洪水で常願寺川の破堤は13ヶ所におよぶなどの大惨状を呈した。

用水開さく竣工式終了後(明治25年)
出典:『常西合口用水誌』

明治25年合口用水開さく工事
(森山知事の視察)出典:『常西合口用水誌』

明治44年、水源地の崩壊で大量の土砂が襲い、水路2.7キロが埋没。大正元年には前年度、難航の末修復した取水口工事が一朝にして瓦解。用水には未曾有の土砂がたまるという大被害。そして、同3年には安政の山津波以来の大災害となり、常願寺川一帯は阿鼻叫喚の生き地獄。すべての水利施設が完全に壊滅されてしまう。地獄から這い登る思いで修理したものの翌年はゲートと第二トンネルが埋没。また、同11年には水源地の大崩壊により水路全体が完全に埋まってしまう。

これ以上、記述を続けてもさほどの意味はなかろう。要するに昭和28年に常東と常西が統合される東西用水合口事業が完成するまで約50年間、ほぼ毎年のように「筆舌に尽くしがたい」農民の苦闘が続けられてきたのである。

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