常願寺川  農人の記憶  ― 山をも流した河[Jyouganji-River  Memory of the Farmers]

【第七章】東西用水路の統合

デ・レーケの謎

デ・レーケの業績は少なくない。淀川の改修、木曽三川の分流、各地の築港計画などでも優れた手腕を発揮した。とりわけ、大きな功績とされるのは治水対策として水源地の砂防や治山工事を体系づけたこと。
その彼は何ゆえに立山カルデラの砂防工事を進言しなかったのであろうか。先の三案で常願寺川の洪水が治まらないことは、誰よりも彼が熟知していたはずである。
すでに彼は淀川の改修でも砂防工事の必要性を訴え、淀川水系の不動川、田上山など数ヶ所で砂防ダムの設計や施工を指導している。また、『砂防工略図解』などの数冊の土木技術書も残していた。

ヨハネス・デ・レーケ

彼は立山の調査の際に対策を問われ、「この崩壊地をくまなく鋼板で覆ってしまう他ない。ただし、それには日本経済の三倍の財力が要る」と大笑したという。治水をめぐる論戦では某記者に「崩壊地の処理は手の施しようもなし。森林策の他なし」と答えている。するとデ・レーケは、この川に関しては砂防・治山を諦めたのか。それとも、受け入れられなかったのか。なにせ砂防は巨額の費用がかかる。森林策(植林)は時間がかかる。
おそらく当時の予算による砂防工事では、「焼け石に水」程度の効果しか期待できないと判断したのではなかろうか。
いずれにせよ、当時世界一と謳われたオランダの治水技術をもってしても、この常願寺川だけは手に負えなかったことになる。

砂防の神様

それでも富山県は砂防に挑まざるを得なかった。県が国庫補助を得て20ヶ年計画の砂防工事を始めたのは明治39年のこと。その後営々と砂防堰堤が造られてきたが、大正11年の立山大崩壊でこれまでの17年間の成果がほぼ無に帰してしまうという悲運に見舞われる。
県民の必死の請願が実を結び、遂に大正15年(昭和元年)、悲願であった国の直轄砂防事業が開始されるのである。

白岩砂防ダム
写真提供:立山カルデラ砂防博物館

後に砂防の神様と言われた赤木正雄が所長として赴任したことも幸いした。赤木の設計した白岩砂防ダムはこの時から14年をかけ昭和14年に完成したものである。先頃「有形文化財」となったが、落差108メートル、7つのダムが滝のように連なるその姿は、微塵の装飾もないがチベットの寺院のような荘厳さに溢れ、見るものを圧倒する。
さらに昭和9年、貯砂量日本一を誇る本宮砂防堰堤も完成する。
しかし、これらの工事も常西合口用水に劣らず止め処なき崩壊との格闘であった。
断崖に造られた細道を数十キロの荷物を担いで登るボッカ達の行列。風でさえ崩れ落ちる脆い山肌。人力だけでこの危険な工事を成し遂げてきたことは驚嘆という他はない。

東西合口用水の誕生

さて、これら必死の砂防工事が徐々に功を奏しつつある中で、下流の平野では異変が起こっていた。川床が低下して取水が困難になる事態が発生してきたのである。上流で土砂の流出を防いでいるわけだから、扇頂部付近の川底が浚われるのは必然の理である。とりわけ困ったのが上流に取水口を持つ常西用水、常東の秋ヶ島、釜ヶ渕用水などであった。
上流の取水口は堅い岩盤をくり貫いたものであった(写真参照)。川床が低下し、水位がこの位置より下になったわけである。

合口後の取水口(鷹泊取水口) 出典:『常西合口用水パンフレット』

常東側も10の用水があったが合口に際しては冷ややかであった。右岸は標高が高く洪水の被害も少なかった。もっとも、下流の利田・三郷用水はすでに合口していたが、下流では川床に土砂がたまって取水困難となり、上流側は逆に川床が低下して取水困難となった。帰せずして常東の用水は上下流の利害が一致し、結束を固める結果となったわけである。
さらにそこへ発電所の建設、なかんずくその放流の位置と分量をめぐって右岸と左岸が対立することになる。
大正9年、東園知事は県の財政が治水や相次ぐ災害復旧で逼迫している状態を打破するために水力発電の推進を掲げ、県に電気局を置いて事業に着手した。以後、富山県は水力発電王国としての道を歩むことになる。

ところが、農民にとってこの放水がどこに流されるかは大問題となる。常西用水は自分たちの水路に流して欲しい。常東側は常願寺川に流してくれないと困る。その放水量をめぐって深刻な対立が生じたのである。
すでに常西用水は上滝発電所からの放水を65%獲得していた。発電所は左岸に多く造られたので必然的に常東は不利になる。
昭和8年、常東の合口事業が地元の議会で可決され、10年に及ぶ請願運動が始まった。
県と国は東西の用水の合口という条件で地元の案を承認。昭和17年、農地開発営団により着工されたが、戦局の悪化と資材不足により、工事は遅々として進まなかった。戦後、農林省が引き継ぐものの、インフレで費用が110倍に跳ね上がるなど難航に難航を重ねた。
同24年、建設省は川床の掘削工事を開始。川床の低下は取水不能をもたらすことから常東合口工事は河川改修事業として位置付けられることとなり、地元負担は常西用水同様、著しく軽減された。

最後に合口化された右岸側下流の
常東合口用水路

そして、遂に同28年、国営常願寺川農業水利事業により、東西合口用水の実現をみるにいたるのである。

雄山神社において盛大な式典が催され、参列者は数十年に及ぶ苦闘や幾多の洪水の犠牲者を想い、一同感涙に咽んだという。
  • ※ページ上部イメージ写真 : 完成した合口用水路 写真提供:常西用水土地改良区

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