芦沼略記 ― 亀田郷・未来への礎

【第一章】人影が消えた!? 鎌倉時代 ― 地形と気象の矛盾

小氷期と惣村運動


図1 寛治3年7月 越後絵図
『新井郷川排水機場技術誌』 1997 北陸農政局より引用 原図所蔵先は不明

図1は寛治3年(1089)に描かれたとされる越後絵図。他にほぼ同時代の康平図(1060)もあるが、いずれも新潟平野はほぼ全域が海の色に塗られている。
これらの絵図をめぐっては真贋論争が繰り返されたが、現在では偽物、つまり江戸時代に昔の越後を想像して描かれたものとの評価が定まっているようである。
確かに、亀田郷からは砂丘のあちこちで縄文や弥生時代の遺跡が発見されている。奈良、平安時代と遺跡数は急増する。
また「延喜式」*1には蒲原神社と白山神社*2も載っており、袋津*3も9世紀に開村という伝承を持っている。平安時代に海であったはずはないというのが、贋作説の有力な決め手となった。
しかしながら、その後、平安末期から鎌倉時代にかけての遺跡はまったくの空白となる。これは新潟平野全体に言えるらしく、内陸部にある吉田町(現燕市)佐渡山一帯の遺跡もこの時代に放棄されたらしい*4
つまり、平安末期から鎌倉時代には、この広大な平野から人影が消えてしまったということになる。

中世温暖期

近年、地球温暖化による海面の上昇などが論議されているが、これまでにも気候変動による海面の上昇・下降(海進・海退とも言う)は何度もあった。気温が上昇すれば、氷河など地上の氷が融け、海面は上昇する。逆に寒冷化すると氷の大地が広がり海面は下がる。20万年前の氷河期には海面は現在よりも130メートルも低く、日本はアジア大陸と陸続きであったことも分かっている。
新潟平野は極めて平坦な地形であり、信濃川が平野に出る長岡市から河口の新潟市までの傾斜は約4,000分の1という緩やかさ。
したがって、この平野は海面が上昇下降を繰り返すたび、その海岸線は何十キロも内陸部へ進んだり後退したりしたはずである。

図2 地球の気温の推移

図2の気候変動グラフでは、平安末期から鎌倉時代にかけて気温の上昇が見られる。過去2000年を通して最も暖かかった「中世温暖期」であり、ダンケルク海進と呼ばれる海面の上昇があった。新潟平野の海岸線はかなり内陸部まで進入したに違いない。気温が下がる室町時代になると海岸線は後退し、再び平野の遺跡数は増加し始める。
したがって、寛治図や康平図が描かれた時代、この平野の多くが水没していた可能性は否定できないとも言えよう。

図3 亀田郷の砂丘群
新潟県文化財調査年報第17『亀田郷(1978)』
(新潟県教育委員会発行)より引用・作図

新潟平野にあったおびただしい数の潟湖はこうした海進・海退や地殻変動、さらには河川や海流による土砂の堆積などによって形成されたものである。新潟とは、文字どおり新しい潟を意味する。また前述した幾条もの砂丘列も海退の時代、日本海からの強風によって造られた(図3参照)。

砂丘の功罪

この水浸しの平野において、砂丘は人が住むには好適地ではあったが、同時に大きな災害をもたらすこととなった。
海に流れ出て行くはずの河川の流れをこの砂丘が阻んだのである。川は澱み、蛇行し、幾たびか流路を変え、この海抜より低い平野は大雨のたびに水が溢れた。

図4 正保4年 新発田領絵図
(『新井郷川排水機場技術誌』 1997 北陸農政局より引用
原図は新発田古地図等刊行会が復刻)

図4は、徳川初期に描かれた越後絵図。信濃川、阿賀野川、加治川といった大河はこれらの砂丘群に阻まれ、大小の全河川が新潟の河口に集まっているのが分かる。つまり、越後山脈に降った雨はすべてこの亀田郷に押し寄せたことになる。
再び江戸期より気温は低下し始め、小氷期と呼ばれる寒冷化の時代を迎える。海は沖へと後退し、陸地らしい姿を見せ始める。これが江戸時代の爆発的な新田開発を可能にした地形的要因であろう。しかし同時に、寒冷化は凶作を引き起こす。悲惨を極めた江戸三大飢饉も寒冷化がもたらしたものである。

身分制度や幕藩体制といった社会制度の抑圧に加え、地形と気象がもたらしたこの如何ともしがたい現実こそが、郷内農民に筆舌に尽くしがたい苦闘を強いることになったのである。

*1 927年に編纂された律令の施行細則。神社の一覧表や地方の特産物などが載っている。

*2 蒲原神社は新潟市中央区長嶺町、白山神社は同市中央区鏡が岡。

*3 新潟市江南区袋津(1丁目~6丁目)

*4 『ブックレット新潟大学』(卯田強博士の研究)

※ページ上部イメージ写真 : 正保四年 新発田領絵図 (『新井郷川排水機場技術誌』 1997 北陸農政局より引用 原図は新発田古地図等刊行会が復刻)


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