芦沼略記 ― 亀田郷・未来への礎

【第二章】牡丹餅と二反の田―近世初期の開発状況

どうしよう新田

戦国時代末期、この地は北越の勇将上杉謙信の領地となる。謙信も他の戦国武将と同じく積極的な新田開発を行った。郷内には謙信・景勝の時代の開村と伝えられる村々が多い。
豊臣の世になって蒲原郡6万石を与えられ、新発田城主となったのが溝口秀勝。以来、亀田郷は幕末まで、大半が溝口氏の支配するところとなった*1
当時の様子は新発田藩の歴代藩主を祀る豊田神社の文書でも窺える。「信濃、阿賀の大川氾濫横溢し、東に加治、放生、佐々木の諸水あり、西に中之口、刈矢田、五十嵐の諸流あり、一帯ことごとく湖水たり。4周の地を山通りといい島通りといい、僅かに村落を占在するのみ*2」。 
また別な文書にはこうある。

表1 近世初期の
亀田郷開発一覧
[ PDF:36KB ]

「土地卑湿、連年水害の要あり、民ほとんど生を楽しまずして、六万石となすも、いわゆる荒田荒畑その半ばをすぎ、実歳入二万石に満たざる*3」。
慶長5年(1600)の新発田藩の封録目録には横越島(亀田郷)は3,741石とあるが、同17年の納高は367石。実に封録の1割しか収入がなかったことになる。「民ほとんど生を楽しまずして」という描写には、風景としてある種の凄みが感じられよう。
藩は率先して新田開発に力を入れたが、半ば脅しまじりで高圧的に開墾させることも少なくなかったという。藩から無理やり拓かされた田を「どうしよう新田」と呼んだ。「どうしようにも詮方なし」に開墾したとの意らしい。『亀田郷治水史』には、当時、牡丹餅ひとつと2反分の「どうしよう新田」を交換したといった出来事が記されている。餅1個程度の価値、それほどに劣悪な田であった。
ともあれ、藩祖の入封から約80年を経た段階で、新発田藩は領内に174の新田村を拓くことができた。このうち亀田郷は48村。
地元の方々への参考資料として、この時期に開発された村と年を表1にあげておく。

亀田町の発展

ここではその当時開発された村のひとつ亀田郷の中核地となった旧亀田町(現新潟市)の発展を見てみたい。
地元の伝承によると、村の開祖は村木七右衛門という戦国浪人。関ヶ原の戦いの後、幕府の残党狩りを逃れてこの地にたどり着き、砂丘上の未開地に目をつけて鍬を入れたらしい。寛永年間に貝塚新田を、慶安4年(1651)には隣の中谷内新田を開発し、これが亀田町の発祥となったという。
中谷内新田は栗ノ木川の起点にあった。
栗ノ木川 ―― 何百年にわたってこの亀田郷を支えてきた母なる川。昭和初期まで川幅は45~72メートルであった。全体が大きな皿状になっているこの地では、あらゆる水が鳥屋野潟へ集まってくる。栗ノ木川は10本の支流を持ち、郷内の大半の排水を鳥屋野潟に導くとともに、鳥屋野潟の水を新潟の港まで運ぶ大排水路であった。と同時に、この地の主な移動手段であった舟運の大動脈、いわば亀田郷と新潟を結ぶ運河のメインストリートでもあった。
そして、この栗ノ木川河口の沼垂町には新発田藩が蔵所を設けて周辺の年貢米などの集積場としていた。必然的に中谷内新田は交易の場として成長してゆく。元禄6年(1693)、月に6回の定期市(現在まで続く亀田町の六斎市の始まり)を開くことが許可されると、これを期に中谷内新田は亀田町と名を変え、この地の商業機能をほぼ独占する形で発展してゆくのである。

新田開発と治水

図1 寛永16年(1639)の横越島絵図

図1は寛永16年(1639)当時の亀田郷を描いた絵図である。
新田や村があるところは、砂丘の周りと川の傍にできた自然堤防の微高地に限られている。おそらく、村名のない場所は葦だらけの湿地、潟湖とも沼とも判別のつかない場所であったのであろう。注目すべきは、絵図左下、和田村新田と花牧村の間で信濃川が分流してこの地に流入し、そえ潟、べら潟、長潟といった多くの潟湖をつなぎながら鳥屋野潟へ流れ込んでいることである。しかもここは、信濃川が阿賀野川の分流(現在の小阿賀野川)とぶつかり、最も流れの勢いが増すところである。大雨の時などは、いったいどういう状況になったのであろうか。
和田村・花牧村間の締切り堤防はその後、造られたらしい(水害で記録は消失)。和田村は近世になって100年たらずで、石高にして6倍、年貢高では11倍という驚異的な増加を見せている。しかし、ここは江戸時代、4回の破堤を繰り返している。
他の地域の新田開発であれば、水を引いてくれば水田はできた。しかし、この地における新田開発は何よりも水を排除することであり、加えて洪水との格闘であったのである。

*1 早通、両川、横越……など数集落は、新発田藩領、沢海藩領、天領、桑名藩領などとめまぐるしく替わっている。

*2 『祭神略紀』

*3 原典不明。『水と土と農民』より

※ページ上部イメージ写真 : 寛永16年(1639)の横越島絵図


  • 前のページへ
  • 次のページへ
  • 芦沼略記-亀田郷・未来への礎