芦沼略記 ― 亀田郷・未来への礎

【第三章】新発田藩の苦悩―領内水利の矛盾

三年一作


図1 亀田郷の洪水破堤場所とその回数

今でこそ亀田郷は周囲を頑丈な堤防で護られているが、元禄以前までは、上流からの土砂が堆積しただけの自然堤防であり、大雨のたび、郷内には大河の水が流れ込んでいた。
この地の水害の記録は、1653年の和田破堤から大正6年(1917)の曽川切れにいたる約260年間に54回。記録に残らない水害はこの数倍あるという(図1参照)。
俗に、この地では「三年一作」と言われた。3年間でまともな収穫は1回、あるいは3年でようやく1年分の収穫の意であろう。
明治初年ですら早通地区では反収4~6斗の田が4分の3を占めていたとの記録がある(1俵が4斗。現在は反収8~10俵)。
もっとも、これは亀田郷だけに限ったことではなく、阿賀野川右岸の北蒲原地方、すなわち新発田藩の領地全域がそうであった。

図2 『正保越後国絵図』(1645) 新発田市立図書館所蔵 一部加筆修正

図2が示すように、江戸初期には加治川など藩領の大小河川はほとんど西へ西へと流れ、紫雲寺潟、福島潟などの大きな潟湖をつなぎながら阿賀野川となり、さらに信濃川と合流して新潟港へ流れ出ていた。
したがって当時の亀田郷は阿賀野川を通じてこれらの水理の影響も受けていた。

紫雲寺潟干拓の余波

近世末期まで新発田藩を苦しめ続けた水利の課題 ―― ことの始まりは紫雲寺潟の干拓であった。この潟の干拓は藩にとって宿年の課題であった。紫雲寺潟には多くの川が流入しており、亀田郷に劣らないほど水に襲われていた。
1721年、藩は延長約3キロの落堀を日本海に向けて開削したが、思ったほどの減水は得られなかった。
ここに幕府の許可を得た商人の紫雲寺潟干拓工事が絡む。この計画では加治川がすべて阿賀野川へ向かうことになり、沿岸農民の猛反対に遭った。藩はやむなく阿賀野川を松ヶ崎の地で切落とし(ショートカット)、日本海へ流すことを幕府に願い出たのである。
ところが、今度これに猛反発したのが新潟町。当時の新潟は数千隻の船が出入りする越後一の港であり、長岡藩の領地であった。阿賀野川の水が途絶えれば港の水深が下がり、船の寄港に支障をきたすとの理由であった。
やむなく新発田藩は増水した分だけを日本海へ流すこと等を約束して松ヶ崎に水路を開削(1730年)。
ところが翌年の雪解け洪水で水路は破壊され、幅270メートルの本流になってしまった。これが現在の阿賀野川の流路である。
しかし、収まらないのが長岡藩。水深の低下によって新潟港は入港数が減り、出雲崎港へ鞍替えするものも出現。長岡藩は旧流路を整備して新潟港に流すよう幕府に嘆願した。幕府は、幅20メートルの水路開削を新発田藩に命じる。ところがこの水路も翌年の洪水で土砂がたまり、通水不能と化す。
幕府は、今度は小阿賀野川の改修によって阿賀野川の水を増大させ、信濃川の水量を増す工事に変えた。この工事もまた新発田藩の負担であったが、一時的に水量は増したものの、すぐに元に戻ってしまう。
数年後、幕府の監督の下で再工事を図ったが、これも新潟港の水深問題を解決するにはいたらないまま、洪水のたびに破損していく。
長岡藩は再び松ヶ崎の締切りを要求。幕府も旧阿賀野川水路の再度の大改修を新発田藩に命じた。今度は2千5百両という巨費をかけて臨んだが、これも失敗。
1759年、別なルートを命じられ、2千両を投じたが、これも3年後に大破。ようやく現在の通船川が完成したのは1773年のこと。幅32メートルの大運河。16万人の人足が投入されたとある。
紫雲寺潟の落堀開削から、領地の水利の解決には50余年の歳月が流れたのである。

曽川切れ(大正4年) 高台に避難した人々


※ページ上部イメージ写真 : 曽川切れ(大正4年) 高台に避難した人々


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