芦沼略記 ― 亀田郷・未来への礎

【第六章】明治の混迷―郷内水利の限界

さて、5章をご覧になった方は、不思議な思いにとらわれないだろうか?
『亀田郷の昔語り』は平成10年の発刊、語り手の多くは今も健在であり、「昔」と言ってもたかだか数十年前、昭和の話である。現在の新潟市は人口80万人を越す北陸一の大都会*1。明治末期に約5万人だった亀田郷も現在約25万人、そして農業生産は常に全国1、2位を争う穀倉地帯である。「新潟産コシヒカリ」は日本を代表する銘柄、知らぬ者はいない。つまり、亀田郷は数十年で日本一劣悪な農村から、国内最高の美田地帯へと変貌したことになる。
いったい何がどうなったのか?……このことに触れる前に、しばらくは明治の亀田郷の話にお付き合い願いたい。

関屋分水の先駆け


現在の関屋分水

「身内の者より飯米、薪、酒、釜までも持参、また医者も召し連れ、その道すがらは軍事の行軍に等しく、笛、太鼓、貝の拍子にて繰り出し、ついに川を越し団九郎茶屋前にて相揃い、鯨波の声をあげて掘り始め、村々の旗印をなびかし、実に戦争にも等しき由*2」。
明治2年、亀田郷の村々から農民約1万人が繰り出し、信濃川を関屋地点で分水(図参照)するための水路を掘り始めたのである。
前年、越後は戊辰戦争の戦場となった上、平野は大洪水に見舞われ、人々は困窮の極みにあった。亀田郷の農民たちは、懸案であった関屋分水を自ら実行するため越後府に嘆願したが、政府は大河津分水案を楯に待てと回答した。このままでは今年の作も危うくなると決意した農民の直接行動であった。
騒動は兵に抑えられ、数十人が処罰を受けて終わった。しかし、この事件は後の大河津分水*3の実現に大きな影響を与えた。農民の先見性は、百年後に造られる関屋分水*4の効果で証明されることとなる。

水利組合の乱立

明治の地租改正により、農民は土地所有が認められたが、小作人は対象外にされた。次第に地主中心の水利用形態に変化してゆく。町村制も、地形や水利共同体とはエリアが異なるなど、水利においては有効な制度とはなり得なかった。そのズレを埋めるべく設置されたのが、用水を主とする「普通水利組合」と治水のための「水害予防組合」。各集落が江丸を築いて守ってきた亀田郷では、この制度により実に90を超える組合が作られた。
しかし、組合を作れば水害が防げるというような単純なものではない。数年を待たず、これらの組合は廃止され半分になっていく。

集落の共同作業(泥上げ)

全国一のポンプ導入

明治20年、新潟県は全国に先駆けて揚排水機を導入した。亀田郷では同38年、ある村のポンプ排水計画が物議を醸す。
もとより水浸しの土地に、ひとつの村だけ大量に排水すれば他の村の水害は増えるばかり。他の村の猛反対に遭い、この計画は中止となったが、下流の石山村などが導入して著しい効果が証明されると、他の村がこれに続く。一村のポンプ導入は隣村の増水となる。たちまち郷内全域、競うように導入が始まり、全国一のポンプ地帯となってゆくのである。
栗ノ木川に排水する約9,000町歩のうち、自然排水区域は3,500町歩、ポンプ排水区域は5,500町歩という有様となった。
しかも、これらのポンプがいっせいに稼動すると幹線水路や栗ノ木川は排水が押し合って、低いポンプ能力をさらに低めるという不経済な事態になってゆく。

集落共同体的水利が抱える難題

こうした自らの集落を護るための「集落共同体的水利」体制が明治以後の水利の近代化を遅らせる大きな要因となった。「利害相反するため、或いは一部落のため他を顧みざるがために、或いは感情の衝突のために、或いは一己のために公益を害うありて粉粉擾擾の停止するところなきが如きものあり*5」。集落ごとに水をめぐる利害は複雑に入り組み、ある計画が持ち上がっても別な集落が猛反発するというのが、これまでの常であった。
結局、郷内全体におよぶ排水システム(栗ノ木排水機場)が完成しない限り、この難題は解決しなかったのである。

洪水の終息

こうした中で明治29年(1896)、信濃川が横田*6で破堤。西蒲原、亀田郷は泥の海と化す。死者48名、浸水家屋4万3千戸以上におよぶ未曾有の大水害であった。
さらに大正2年、小阿賀野川の「木津切れ*7」も1万2千の家屋が浸水。
そして大正6年の信濃川の「曽川切れ*8」。亀田郷全域が修羅場となった。被災者数万人。この「木津切れ」の洪水を契機に、大正3年、「亀田郷水害予防組合」が結成される。これは郷内10ヵ村、9,000町歩を包括する初めての統一的治水組織であった。
「亀田郷」の名称が登場し、定着するのはこの時である。そして、これらの大災害が契機となって、難航に難航を重ねてきた大河津分水が明治42年から再開され、大正11年ようやく通水されることになる。
また、政府が大正4年から始めた阿賀野川改修工事も昭和8年に完成。ここにいたって、以後、信濃川、阿賀野川、小阿賀野川のもたらしてきた氾濫はほぼ終息するのである。

曽川切れ(大正6年)

*1 平成17年10月合併後の人口

*2 『亀田郷治水史』

*3 この事件がきっかけとなり、越後府は大河津分水工事を決定した。しかし、技術的問題、新潟港の反対運動、一揆などが重なり、明治8年に中止。その後、紆余曲折を経て、明治29年の「横田切れ」をきっかけに工事再開運動が再燃。同42年、当時東洋で最大といわれた事業が再開する。

*4 関屋分水は江戸時代から構想があったらしい。明治44年には関屋掘割が造られたが、本格的な関屋分水は昭和39年に着手、同47年の完成であった。

*5 『亀田郷治水史』

*6 現在の燕市横田

*7 現在の新潟市江南区木津

*8 現在の新潟市江南区曽川

※ページ上部イメージ写真 : 曽川切れ(大正6年)


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