芦沼略記 ― 亀田郷・未来への礎

【第七章】亀田郷  土地改良への挑戦―耕地整理の財産

国営土地改良事業 東洋一! 栗ノ木排水機場の完成


栗ノ木排水機場(昭和23年完成当時)

亀田郷の本格的な土地改良事業は昭和16年に始まる。農地開発営団による栗ノ木排水機場の建設、阿賀用水幹線、横越排水路などの建設である。戦局の悪化により、計画は何度も変更され、セメント、鉄骨などの資材が不足する中で難航したが、終戦を迎え、国営阿賀野川沿岸事業へと引き継がれる。
当時、全国の国営事業は31地区で行われていたが、この阿賀野川沿岸事業は、全国で2番目の受益面積を持つ大事業であった。
そして、昭和23年、遂に、東洋一と言われた栗ノ木排水機場が完成。毎秒40トンという驚異的排水能力。試運転では鳥屋野潟の水位が1メートル近く下がったという。
郷内農民にとっては、水位が1メートルも下がるなどということは、まったく未知の世界であった。
舟堀はどうなるのか、道はどうなるのか、用水は足りるのか……。
また「集落共同体的水利」の抱える難題が郷内に漂い始める。用水困難、農地の乾燥による稲熱病、病害虫の発生、舟の通行不能……、急激な環境の変化に各集落で不測の事態が続出するはめになったのである。地形は元のまま水位だけが下がっても、新たな課題が発生することは分かっていた。水位の低下にあわせて、郷内の農地を大改造(耕地整理)する必要があったのである。

耕地整理の難題

すでに地元の若い有志はこの排水機場の完成に合わせて亀田郷耕地整理組合を結成しており、村々に耕地整理の必要性を説いて回った。
時代も味方する。終戦の翌年、農地改革により大地主の土地は小作人に解放されている。そして同24年、「土地改良法」が制定され法的整備が整った。同26年、耕地整理組合は「亀田郷土地改良区」と名を変える。
しかし、耕地整理はこの地の農民にとっては革命に近かった。換地、すなわち、広い四角形の農地を造るため自分の農地と他人の農地を交換分合しなければならない。
この地の農地はいずれも先人が鎌で切り拓き、一寸づつ潟の埃土を積み上げ育ててきた血と汗の結晶。客土の厚さ、耕地条件の良し悪しは千差万別であった。良田を持つ農家は頑として説得をはねつける。郷内のあらゆる農家で、特に高齢者と若い世代の間で激しい議論が戦わされたという。

遂に実現! 乾いた田での稲刈り


農家総出での耕地整理(水路の掘削)

この耕地整理は、その後10年にわたり、郷内農民総出の大事業として行われることになる。「あんにゃ」と呼ばれる若者の、敗戦国日本を復興するという未来への輝きに満ちたエネルギーが勝ったのである。
全郷の農民が一丸となって「にわか土方」となった。測量に始まり、古い畦や水路を壊し、地を均し、新しい畦を盛り、水路を掘る……。かつてない大事業にどこの家でも親戚縁者が駆けつけ、他地区の人と助け合い、田んぼは祭りのような大騒ぎだったという。
当時は先進的であった20アール区画。換地の公平さを期すのも大変な難題であった。
「そんな苦労の結果、耕地整理後初めて、水のない田んぼで稲刈りをした時の感激は、忘れられません」(『亀田郷の昔語り』より)。
乾いた田で稲刈りをするというごく普通の農家の暮らし、この当たり前の光景を見るまでに、この地ではいったいどれほどの苦難と犠牲を強いられてきたのであろうか。

新しい激流

信濃川、阿賀野川の水害からも解放され、それからの亀田郷は、全国トップの穀倉地帯へと急速に登りつめる、はずであった。しかし、大河に代わって押し寄せてきたのは高度経済成長という名の激流であった。
昭和20年代半ば、工業開発拠点として新潟県は新潟市他3地区が指定を受けた。特に新潟市は天然ガスなどが重視され、30年代になると県の工業化の主軸となってゆく。
昭和22年からガスの採掘が本格化。年を追うごとに生産量は増大していった。

地盤沈下

変化は20年代後半から起きていた。広域にわたる地盤沈下である。新潟港は1メートル沈み、突堤が沈下崩壊、科学技術庁は「半年に20センチ以上も沈下する勢い」と早急な対策の必要性を訴えた。
農村では水利施設の機能が著しく低下し、34年には栗ノ木排水機場も急激に沈下。40ミリの雨ですら2000ヘクタールの湛水被害が発生するにいたったのである。
この対策は難しかった。第一、原因が分からない。ガス採掘が原因であることが判明するまでに数年を費やした。
日本の高度経済成長を牽引した重工業を支援する政策によってもたらされた現象であり、農業が被害を受けても、これまでのように農林省の施策だけで解決できるような問題ではなかったのである。
しかし、このあたりから亀田郷土地改良区の獅子奮迅の闘いが始まる。その若きリーダーは、『街道をゆく――潟のみち』に「大変な傑物」として登場する佐野藤三郎理事長。
全郷にわたり農民総出で成しとげた耕地整理は「集落共同体的水利」からの敢然たる決別であったが、それ以上に郷民が得た財産は、郷内の強い結束力であった。あらゆる辛酸に耐えてきた農民たち。そして、彼らが団結したときの凄まじいパワー。
土地改良区は一丸となって陳情団を編成し、国会議員、関係官庁に幾度も施策の必要性を訴えてきた。大蔵省には農の苦闘を学ぶ「佐野学校」なる呼び名もあったという。
そして、多くの復旧工事、亀田郷特殊排水事業などを完成させるのである。

新潟県庁前に集まった亀田郷の陳情団


※ページ上部イメージ写真 : 新潟県庁前に集まった亀田郷の陳情団

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