湖北の祈りと農 [Prayer and agriculture of Kohoku]

【第一章】理想的平野

古代豪族

近江は出雲と並んで古代史の宝庫である。湖北でも、300戸という大集落を営んでいた大海道遺跡、130基の古墳で名高い古保利古墳群、海洋族ともいわれる安曇氏、伊吹山西麓で強大な勢力を誇った息長氏、酒の祭神・坂田氏、愛知氏、犬上氏、鹿深氏など古代豪族がひしめいていた。
歴史学とは基本的に「史(記録)」を対象とする学問である。したがって、文字のなかった弥生、縄文、石器時代などは有史以前と呼ばれ考古学の分野となる。古代史は両者の中間に位置するためか様々な推論が蔓延る。


気温の変動

農という観点からこの古代史の推論に参加してみたい。人は狩猟や農によってしか生きられず、食を得るための条件、つまり地形や気象が古代の歴史を動かしてきた可能性は大いにありうる。
縄文時代は現在よりもはるかに暖かかったことが分かっている。ところが弥生時代になると地球の気温は低下に向かう(図1参照)。さらに3世紀頃から急激に下降する。

気温の変動、とりわけ寒冷化が人間の生活に及ぼす影響は大きい。第一に冷害などにより作物の生産量が減る。「小氷期」と呼ばれる18世紀頃、日本では餓死者数十万人を出した三大飢饉が起きている。また産業革命の先駆けとなった英国の綿工業は、この頃の世界的な気温低下による綿への需要が支えたともいう。

図1をみると、3、4世紀頃の気温は、「小氷期」と同じくらい低い。この頃、西洋ではゲルマン民族の大移動が起こっている。同じ時期に中国大陸でも飢饉が起こり、南の新天地を求めて日本に渡来してきたのではないかという推論も成り立つ。


図2:湖北地方の位置(地形図の制作には国土地理院発行の数値地図およびカシミール3Dを使用)

渡来人の開発



朝鮮半島からの至近距離は九州だが、リマン海流や対馬海流に乗れば半島から人が最もたどり着きやすいのは越前である(同海岸には今もハングル文字の漂流物が多く集まる)。渡来人は農耕民族なので平野を求める。最も近い越前平野を開拓して王国を建てたのが越の国。そして、山ひとつ超えて湖北平野に定着した渡来人も多かったに相違ない。

羽衣伝説は全国に40ほどあるが、余呉湖のそれは最も古い。空から舞い降りた天女がこの地の古代豪族・伊香氏の祖先になるという降臨説は、この豪族が渡来系であることを示唆していよう。
近江を選んだ理由は容易に想像できる。第一に、平野の広やかさ、空の明るさ、琵琶湖の美しさ。
荒海を渡ってきた異国人にとっては夢のような新天地だったに相違ない。

湖を取り巻く地形は山が浅く川も短い。洪水は起こるにせよ、越前の九頭竜川などよりは、はるかにおとなしい。
とりわけ波の静かな琵琶湖の水運は、得がたい財産であった。この平野に残るおびただしい古墳からは丸木船や構造船に近い舟の破片や船型埴輪が出土している。琵琶湖・瀬田川の水運によって、この地方の豪族は大和や河内の政権と結びつきを強めていった。


たたら製鉄

さらに古代豪族にとっては決定的とも言える要因があった。この地は製鉄が可能だったことである。

古代のたたら製鉄は、砂鉄を原料とした。砂鉄は花崗岩などに含まれる鉄成分が風化されてできる。日本は砂鉄の世界三大産地といわれ、特に近畿から中国山地にかけて多く分布している。したがって、花崗岩を多く含む山麓の地に強大なクニができた。

中国山地の出雲と吉備、白山山系の越前、そして琵琶湖を取り巻く山々。
とりわけ、湖北の北東にそびえる金糞岳は、金糞(製鉄のクズ)の名が示すようにたたら製鉄の産地であった。周辺には製鉄にちなむ地名が多く残っている。
金糞岳の麓の古橋集落では、日本で最古の製鉄遺跡が見つかっている。また高月町の井口遺跡や余呉町の桜内遺跡などからも大量の鉄くずや鍛冶炉の跡などが出土した。
長浜以北は「一里一尺」と言われるほど雪が深くなる。花崗岩は温暖差が激しいほど風化が早まり、砂鉄が分離しやすい。雪国である越前の山中から湖北の金糞岳にかけては大量の砂鉄が採れたに相違ない。


伊香具神社(木之本町)

湖北・伊香郡の豪族の力は神社の多さからも想像できる。神社の古さや格式の高さを示す「式内社」の数は、近江国12郡で142社。他の郡のほとんどが一桁であるのに対して、伊香郡は45社と群を抜いている。中でも羽衣伝説の主を祀った伊香具神社は、最も格式の高い「名神大」という位である。

ともあれ、海を渡ってきた古代人にとって、湖北平野は理想的な土地だったと言えよう。

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