湖北の祈りと農 [Prayer and agriculture  of Kohoku]

【第三章】己高山仏教文化と浅井三代が遺したもの

己高山仏教文化

己高山

水不足が顕在化するのは中世に入ってからであろう。高時川をめぐる用水論争は14世紀前後から記録に現れる。

農地面積で見る限り、平安時代までの近江は日本一豊かな国であった。この頃になると気候も温暖となり、日本や中国でも平和な時代が続いている。王朝は盛んに中国に遣唐使を送り、仏教文化を輸入した。

湖北の東にそびえる己高山は近江国の鬼門にあたり、古代からの霊山、修行の場であった。奈良時代には中央仏教に加え北陸の白山信仰が流入し、比叡山の影響を受けながら、観音信仰を基調とする独自の「己高山仏教文化圏」を構築したという。興福寺の資料(1441年)には、法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺、鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられている。現在の湖北にある観音像は、ほとんどこうした寺院に収められていたものである。

思弁的な仏教の教義は貴族や僧侶のものであり、田で泥にまみれて働く農民に縁はない。しかし、弥勒菩薩は遠い未来にやって来る菩薩、観音菩薩はこの世の菩薩であり現世の苦難を救済する菩薩と考えられた。祈りに貴賎はない。むしろ農民の、食べ生きていくことへの切なる願いは、領主よりも観音菩薩に向けられたに相違ない。


荘園制の波及

公地公民制は100年も経ないうちに崩れ始め、この近江の平野にも荘園が広がってゆく。荘園領の多くは寺社に寄進された。
荘園は私領であるので水田の整備には力が入る。川には堰を築き、長い水路を造る。
農地の私有は水路の私有、つまり、川の水の占有でもあった。

湖北地域北部でも、伊香荘(叡山東塔寺金剛寺院所領、木之本・黒田・中之郷周辺)、伊香古荘(京都東福寺所領、大音付近)、余呉川(比叡山山門派所領、上之郷・下之郷周辺)、中庄(京極氏所領、旧杉野村)、黒田郷(妙心寺所領、中荘の一部)、石作り郷(妙心寺所領、木之本・千田)などの荘園が競うように水路を引いていったと想像される。


武士政権の誕生

荘園制度は王朝の弱体化を招き、やがて武士政権を生む。政権とは年貢を取る権力のことであり、後に400年も続く戦乱の時代は、つまるところ領地、すなわち農地をめぐる戦いであった。

近江源氏・佐々木氏は鎌倉初期から守護の座であり続けたが、さすがに室町末期になると戦国大名化してきた梟雄・浅井亮政による北近江の支配権を認めざるを得なくなる。

浅井氏の領国はたかだか北近江の三郡。戦国大名としては、はなはだ小さい。しかし、この地は本州が最もくびれたところにあり、伊吹と鈴鹿の両山系が巨大な砦のように横たわっている。交通の大要衝であり、いわば天下取りのキャスティングボードを握る位置にある。その恩恵も大きかったが、また戦乱による災厄も大きかった。


戦乱の舞台

木造十一面観音立像(向源寺・観音堂)
(写真提供:高月町)

姉川の合戦、小谷城の落城、賤ケ岳の戦い。姉川は「野も山も死体ばかり」、余呉湖周辺の田畑も血で赤く染まったという。集落は修羅場と化し、男は使役、老人婦女子は逃げまどった。余呉湖の村に伝わる当時の文書には「賤ケ岳の乱に村中、二年ばかり他所へ行き」などとある。

そして、多くの寺社が火に包まれた。農民たちにとっては観音菩薩だけが唯一の味方であったに違いない。燃えさかるお堂に飛び込み、我が子を救うようにして守ってきたということ自体、彼らの暮らしの切実さ、祈りの深さを示して余りあろう。


浅井久政の業績

亮政、久政、長政と続いた浅井氏三代。とりわけ長政の生涯は、お市と3人の娘の数奇な運命もあって戦国絵巻の華である。多くの書物に取り上げられており、ここでは省く。
しかし、浅井久政の業績について触れぬわけにはゆかない。
彼は英雄的気概に富んでいた亮政、長政に比べ、六角氏の庇護を受けるなど戦さを好まなかったためか、評判はあまり芳しくない。
しかし、農民にとっては、戦さ好きの領主よりはるかにありがたい存在であったに違いない。領内の民政には熱心であり、とりわけこの頃から常態化していた水争いについて多くの裁定を行なっている。
姉川における大井と郷里井の争い、高時川の御料所井をめぐる紛争、大井と下井の水論など、彼は当事者の言い分を聞き、古田(上流)優先の慣習を遵守する旨を指示している。

しかし、どういうわけか久政は自らその定めを破り、最下流にあった堰を最上流へ移すという全国にほとんど類を見ない離れ業を行なった。そして、世にも奇妙な慣習を残すことになった。

知る人ぞ知る「餅の井落し」である。
戦国の世に始まり、昭和15年にいたるまで400年間続いた「餅の井落し」。これこそ「十一面観音の里」や古くからの伝統的行事「おこない」に劣らずこの湖北の風土を象徴する「儀式」であり、血を流さずして水争いを乗り切るために極限にまで練り上げられた農民の「知恵」であった。

写真:左:浅井亮政像(徳勝寺蔵)(写真提供:長浜市長浜城歴史博物館)
中央:浅井久政像(高野山持明院蔵) 右:浅井長政像(高野山持明院蔵)

  • ※ページ上部イメージ写真 : 写真:左:浅井亮政像(徳勝寺蔵)(写真提供:長浜市長浜城歴史博物館) 中央:浅井久政像(高野山持明院蔵) 右:浅井長政像(高野山持明院蔵)
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