湖北の祈りと農 [Prayer and agriculture  of Kohoku]

【第四章】餅の井落しの実際

餅の井の由来


高時川筋伊香郡浅井郡水利絵図写
(一部加筆)
(高月町高月区蔵)(画像提供:高月町)

高時川の最下流にあった餅の井は、1442年前後、丁野村に蟄居していた三条大納言公綱が農民の水不足にあえぐ姿を見て、右の古図のように上流の堰をまたぐバイパスを造ったらしい。しかし、この川は夏になると「瀬切れ」を起こすほどであり、取水の苦労は相変わらずであった。

浅井氏の城下は高時川の左岸であり、最も下流の餅の井の水を引いていた。しかし、右岸を潤す上流の三堰は井口弾正の所有であった。弾正は佐々木氏の家臣、浅井と同格の荘官であり、高時川の取水に関する絶対的権限を握っていた。

浅井亮政が頭角をあらわし、井口弾正は次第に浅井の下風に立つようになる。亮政の子・久政は弾正の娘を娶り、自分の城下に水を引く餅の井の堰を、最下流から上流三堰の上に移すことを懇願したという。
困ったのは弾正である。水は領民の命に等しい。しかし無碍に断れば主人に近い浅井に歯向かうことになる。

思案のあげく「錦千駄、綾千駄、餅千駄*と引き換えに」という破天荒な取引を申し出た。ところが、「せせらぎ長者」と呼ばれる左岸・中野の豪農が三千駄の荷物を届け、弾正は餅の井の上流移転をやむなく認めたという。

ところが奇妙なことに、久政の書状には「飢水になり迷惑の時は水まかし到さるべく候」とある。右岸の三堰を気遣ってか、渇水の甚だしい場合は餅の井を落す(破壊)ことを許可している。飢水とは用水のことではなく、飲み水を意味しているところがなんとも巧妙ではないか。

この件は久政の優しさか弱さか、あるいは弾正のせめてもの意地か。ともかくも久政と弾正の密約は成立した。これが後400年にわたって続く餅の井をめぐる攻防の始まりである。


壮絶な水争い


かつての餅の井堰付近の様子
資料:近畿農政局湖北農業水利事業所
『湖北農業水利事業誌』(昭和62年3月)

すでに餅の井が移転した年の夏、「五、六日の間に三七、八回も堰が落され」(丁野誌資料「あかずの箱」より)流血の大乱闘が起こっている。
しかも、ややこしいことに、後年、密約の当事者であった両家が、小谷の落城とともにとも滅びてしまったのである。

おりしも関が原の戦いの時、「餅の井を元に戻せ」と主張する右岸側は烈しい攻防の末、堰を潰滅してしまう。左岸の農民は打ち首覚悟で、ちょうど戦さを終えて彦根にいた家康に直訴にいった。この時の餅の井の権利を認める裁定も文書として残っている。ところがその後も死者が出る大乱闘となり江戸での裁定となった。

農民にはいささかの罪もない。罪のない農民同士が命をかけて争うという理不尽さ。当初は流血沙汰にもなったが、400年にわたり幾度となく繰り返され、互いに村の生死をかけた烈しい攻防、調停を通して、両岸の闘いは次第にあたかも歌舞伎のような約束事で練り上げられ、様式化されてゆく。


  • *「駄」は馬一頭に背負わす重量で約36貫(135Kg)。「綾」とは布のこと。
  • ※ページ上部イメージ写真 : 井落としの開始 写真提供:湖北町丁野区
  • 前のページへ
  • 次のページへ
  • 湖北の祈りと農