那賀川平野「農」の礎 Nakagawa Plains - Foundation of Agriculture

【第三章】平野の開発

島とも平野とも判別の付かぬ時代から、この平野には農民の足跡が濃く刻まれてきた。

鎌倉時代末期の那賀川平野推定図
現在の地形(薄いブルーの範囲)と近い状態になったのは、江戸時代も後半のことである。 (資料:『水問題の関係資料』那賀川土地改良区、原典『那賀川沿革史』、地図の制作には国土地理院発行の数値地図およびカシミール3Dを使用)

当然のことながら、無人の荒野で川が氾濫してもそれを洪水とは言わない。水が溢れる土地に人が住みつくゆえに、水害が起こるわけである。
しかし、水田は川から水が引ける場所、つまり溢れることもある土地にしか造れない。川から離れ、高い土地に田を造れば、日照りに水は来ない。したがって、溢れやすい場所にこそ人は住み田を造る。
しかも、洪水は山からの肥沃な土も運ぶため、農地を肥やす。
阿波藩は大量の肥料を要する藍作のため吉野川沿いには長い間堤防を造らせなかったほどである。

それゆえかどうか、島とも平野と判別の付かぬ時代から、この平野には農民の足跡が濃く刻まれてきた。

平野の南岸上流部、北岸一体には古代、条里制によってつけられた地名が多く残っている。
平安時代中期に編纂された『和名抄』には「那賀郡八郷」との記述がある。一郷が約50戸として八郷で400戸。しかし、記録に残るような家では、家族や使用人など数十人が暮らしていたらしく、人口は1万人を超えていたと考えられる。


城山から望む阿南市中上大野町周辺。
古代、この一帯は大野庄と呼ばれる荘園であった。

平安末期には、竹原荘、大野荘、牛牧荘といった荘園も成立していた。

ともかくもこの当時は、レースの網目のように乱流する那賀川の水を田に入れるだけの極めて原始的な水利であったかと思われる。

戦国時代になると築城技術などの進歩に伴って各地では大規模な水利開発も行なわれ、戦国大名は自国の力を蓄えていった。
しかし、阿波の国は吉野川、那賀川とも手のつけられない暴れ川、記録に残るような開発は、江戸時代を待たねばならなかった。


阿波藩初代藩主、蜂須賀家政(蓬庵)の肖像画
家政は、吉野川流域に藍作、那賀川流域に稲作を奨励する政策をとった。
(画像提供:市立徳島城博物館、原図所蔵:如意寺)

阿波に入国した蜂須賀家政はさぞかし驚いたに相違ない。徳島平野と那賀川平野を合わせても、当時の水田はわずか5,200町歩程度。しかも、この地は台風の通り道であり、吉野川、那賀川とも2、3年に一度は起こる大洪水。

藩は藍作に目をつける。洪水のせいで土地は肥沃であり、藍の穫り入れは台風の来る前。吉野川を藍の一大産地として特化し、未墾地であった吉野川下流を開拓、藍、桑、西瓜など換金作物の栽培を奨励する。

そして、阿波藩は、那賀川平野を米作地帯として安定的な収入を図るという政策をとった。藍の投機的商品性と米の安定性を狙ったわけである。確かに藩にとっては賢明な策ではあった。
この地には「新開」「古開」「外開」など、「開」の付く地名も多い。そのほとんどは江戸時代に開墾された土地である。「和田津新田」「辰巳新田」などの干拓も行われた。

しかし、農民にとって米作りは、水路造りに等しい。この幾重にも乱流する暴れ川を治め、堰を築き、用水路を整備せねばならない。

平野の開発には、死をかけた苦闘と自己犠牲がともなっていたのである。

『坂野村弥平衛新田』は南海大地震による破堤以前の様子と推定され「島打原」という砂州が描かれている。(画像提供:徳島県立文書館)

和田津新田絵図  和田津新田(現在の小松島市和田津新開町)は、元禄年間(1688~1703)に開発が始まっていたが、1707年の南海大地震によって堤が大破し干潟に戻ったという。1716年からの干拓では、強風や高波で幾度となく破堤が繰り返されながらも1729年に完成。40町の新田が生まれている。文化文政期(1804~1829)の様子で、地形も現在と近い。(画像提供:徳島県立文書館)

※ページ上部イメージ写真 : 絵図『坂野村弥平衛新田』 写真提供:徳島県立文書館

  • 前のページへ
  • 次のページへ
  • 那賀川平野「農」の礎