那賀川平野「農」の礎 Nakagawa Plains - Foundation of Agriculture

【第四章】農民の死闘



下広瀬堰を築造した佐藤良左衛門の碑
(阿南市羽ノ浦町中庄)

江戸時代に造られた堰を見てみたい。
「一の堰」は平野南岸上流の一帯を潤す最も古い用水で江戸初期からあったらしい。

「桑野川一の堰」も築造は慶長年間。その後、牛岐城の石垣を使って大堰に造り替えたという。
「竹原堰」は1674年の築造。
那賀川北岸では1674年、羽ノ浦ほか四村約1,300町歩を潤す大用水「大井出堰」が佐藤良左衛門によって開削された。
「下広瀬堰」は1790年、良左衛門の孫の築造。
北岸上流部の「上広瀬堰」は、江戸後期の1836年に造られている。こうした豪農が手がけた大用水の他にも駄良蔵用水、牛蔵用水、牛太郎用水など農民の手になる用水が多くある。車川用水のように「車」の名がつく用水は、畑を水田に転換するため踏み車で水を入れた用水である。

江戸中期、阿波の水田は18,000町歩にまで拡大。しかし、水田面積が多くなった分だけ水が不足する地域も増える。各地で水をめぐる諍いが起こるようになった。

加えて、この川は、土砂のせいか、旧河道のせいか、すぐに流れの道を変えてしまう(これは現在も砂洲の位置は頻繁に移動している)。せっかく堰を造っても、川の流れが変われば水は充分に引けない。とりわけ、南岸と北岸では激しい水争いが展開された。

今もこの平野には多くの「だんじり」があるが、江戸時代、藩は産土神社の秋祭りに那賀川の両岸、大野と古毛、岩脇と南島、古庄と柳島という組み合わせでだんじり出させた(出祭り)。対岸同士の友好を深め、水争いをなだめるためであったという。

渇水も地獄なら、洪水も地獄。堰からは濁流が流れ込み、堰はそのたび破壊された。崩されては修復、修復すると破壊。それが二年に一度は繰り返されたのである。


在りし日の大出堰。
上流からの木材を運ぶ筏が渡っている

堰を開けて斬首された百姓を弔う三栗の首塚、藩に無断で分水を試み刑死した銅蔵を弔う銅蔵原、人柱になった囚人を弔う古毛の弁天など各地には多くの悲話が残っている。
この平野にある水神の数だけ、人々の祈りの数だけ、尊い命の犠牲があったに違いない。

これら水路の開削者や犠牲者は幾千人という人の命を救ったという意味において、いかなる名医や名僧にも劣らぬ功績をなしたと言えるのではなかろうか。
農民の死闘はめげることなく続く。江戸中期あたりからところどころに堤防を造りあげ、この怪物のような川をじわりじわりと抑えつけていったのである。
この川の本格的な堤防は「万代堤」に始まる。1787年、庄屋の吉田宅兵衛が私財を投じて北岸に築いた約1kmの大堤防。その堤防の修復にも多大な犠牲が払われた。
宅兵衛の孫は、堤防を守るため600トンもある大岩を山から川に投入たという。

南岸でも同じ頃「黒土堤」「豊年堤」が造られ、その後、堤防は延ばされていった。

そして、ようやく文明開化を迎える。

阿波国絵図  作製年は不詳であるが元禄13 年(1700)と推定される。この平野の開墾は、江戸時代の元和・寛永期(1615~43)に急激に進んだといわれており、この絵図はその少し後の時代と考えられる。那賀川下流部には村(赤い点)が密集している。(画像提供:徳島大学付属図書館)

※ページ上部イメージ写真 : 『阿波国絵図』 画像提供:徳島大学付属図書館

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