那賀川平野「農」の礎 Nakagawa Plains - Foundation of Agriculture

【第六章】先人たちの足跡

さて、ここでこの「農人たちがつくった川」の姿を見てみよう。 昔、あれほど乱流していた川は見事に1本の大河となり、堤防で固定された中、砂洲をうねるようにしながら海へ流れ出ている。 過去、この本流にあった六つの堰は、現在、大西堰、南岸堰、北岸堰の3つに統合された。そして、今また、おそらくは江戸時代の農民が夢にまで見たであろう1本の堰、すなわち那賀川統合堰への事業が進められている。 しかし、慈母の死と悼んだ「大井手堰」の恩恵を人々が忘れないように、今は役割を終えて姿を消したこれら6つの堰の存在が忘れられることはないであろう。 そしてまた、この平野に尊い命を捧げてきた先人の恩恵も、この川に水神が祀られている限り、忘れられることはあるまい。




南岸堰



県営土地改良事業により、昭和29年(1954)にかけて造られた固定堰。現在も南岸地域一帯、約1,000haの農地に水を送っている。
南岸堰に統合した昔の堰
一の堰
1603年に築造されたといわれる。那賀川南岸地域では最上流に位置し、長生村、宝田村、大野村など約300町歩を潤していた。

竹原堰
1674年頃の築造といわれる。南岸の主力堰として、長生村、宝田村、中野島村、大野村の五六町歩を潤したほか、桑野川等にも給水を行っていた。

乙堰
明治19年、南岸下流の柳島町、横見町一帯の用水不足を解消するため築造され、中野島村、富岡町、平島村の165町歩を潤していた。



北岸堰



国営那賀川北岸土地改良事業により、昭和30年(1955)に完成した固定堰。現在も北岸地域一帯、約2,500haの農地に水を送っている。
北岸堰に統合した昔の堰
大井出堰
1674年、蜂須賀藩の命により初代佐藤良左右衛門が修築した。羽ノ浦、立江、坂野、今津、平島など約2,300町歩を潤していた。

下広瀬堰
1790年、大井出堰を築造した佐藤良左右衛門の孫が築造。中庄、岩脇、古庄の村々、120町歩余りが用水の恩恵にあずかったという。

上広瀬堰
1836年、費用一万両を費やして築造されたと伝わっている。古毛、妙見、上岩脇などの田、60町歩余りを潅漑してた。



桑野川一の堰



慶長年間(1596~1615)には存在していたが、1683年、一国一城の令により取り壊された牛岐城の巨石を使い改築されたと伝わっている。その後も昭和28年(1953)、昭和43年(1968)に改築されており、今も桑野川下流南岸の阿南市富岡町、見能林町、才見町などに水を送っている。



大西堰



明治9年(1876)に吉井用水の取水堰として、地元の有志によって工事が始められたが、あまりの困難さに一時中止。通水可能となったのは明治23年(1890)であった。吉井用水は、加茂町大西から吉井町まで2km余り、途中の山を素堀りのトンネルで通し、今も63haの水田を潤している。

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