尾張平野の最大資産 ― 宮田用水  通水400年 [Miyata-Yousui since 1608]

【第三章】尾張平野の生存基盤


尾張国繪図(元禄14年)
御囲堤で守られた尾張国。元禄14年(赤穂浪士討ち入りの頃)の絵図である。木曽川には3ヶ所の杁が見える。犬山城の隣が木津用水、その西隣が般若用水、さらに西が宮田用水の杁である。網の目状になった用水の周辺にはおびただしい数の集落が存在するが、例えば、現在の名古屋市域(名古屋城の東南部)には用水がなく、わずかな村しか存在しない。

家康の偉大さは、何と言っても徳川265年の基礎を築いたことであろう。2世紀半も鎖国(自給自足)して平和を保った国など世界史上類を見ない。

家康が築いた基礎とは何であろうか。言うまでもなく、それは「農」である。家康は古代政権にならって稲作による社会の安定を図った。室町時代まで90万町歩を前後していたわが国の農地面積は、江戸時代に300万町歩にまで拡大している。

その家康の手になる最初の巨大プロジェクトが尾張で行われた「御囲堤」の築造であった。彼は土木の天才・伊奈備前守忠次に命じ、犬山から河口にいたる約50kmの堤防を造らせ木曽川の流路を固定した。つまり、尾張平野に流れ込んでいた何本もの川を締め切って西流させたわけである(瀬替え)。これで尾張はぐるりと堤防で囲まれ、洪水の災厄から開放されることになる。
続いて、伊奈忠次は大野村に杁(取水口)を造って木曽川の水を取り入れ、派流であった般若川を般若用水として整備し、その後、大江用水や新般若用水とつなげ、尾張平野約2万町歩を潤す網の目のような水路のネットワークを形成したのである。

これが宮田用水の誕生。一六〇八年のことである。

享保12年(1727)に描かれた「木曽川通絵図」。
この時代には3つの杁があった。右から木津杁(木津用水)、般若杁(般若用水)、
宮田杁は2幅の取水口となっている。

徳川家康

明治34年に改修された宮田用水西元杁の吐口

家康は清洲を街ごと引越しさせて名古屋城下を造り、九男義直を藩主とする尾張藩を創設。宮田用水を藩の直轄とした。
50kmに及ぶ連続堤防が日本初なら、木曽川のような大河川から直接取水するのも初の試みであった。さらに農民の用水路をネットワークごと藩が管理するなど前代未聞のことであった。
御囲堤の築造は、木曽ヒノキなど木材流送のための河川整備であったとする説が有力である。確かにそれは大きな財源となったが、家康の真の狙いは大地の改変、尾張を洪水から守り、稲作を主体とする尾張平野の生存基盤を造ることにあったのではなかろうか。

徳川幕府はこの手法を関東平野にも応用している。伊奈氏三代忠治に命じ江戸に流れ込んでいた利根川を銚子方面へ流す(瀬替え)とともに、利根川に杁を設け、元の流路を利用して葛西用水を造り、その水路を幕府の直轄としたのである(1660年)。

このいわば「宮田プロジェクト」方式は全国に喧伝され、大きな影響を与えたに相違ない。家康自らが率先して新しい社会づくりのため、関東平野、尾張平野という誰も手をつけなかった広大な氾濫原野を日本有数の沃野に変貌させたわけである。江戸期の農地は秀吉時代の二倍になっている。

「美濃・尾張殊に餓死せしかば、多く他国へと落ち行きける」と描かれた中世の尾張。
中村医師の造った水路は13kmであった。宮田用水の総延長は170km(現在は三二九km)。その後造られた木津用水、新木津用水などとともに広大な尾張平野を隅々まで潤してきた。
この後、尾張藩に大規模な飢饉の記録はない。年貢は江戸期を通して四公六民を崩さず、大きな一揆も出していない。七代藩主宗春が享保の改革に逆らい、芝居や音曲を奨励する積極的な経済政策をとったのも尾張平野の豊かさの証ではないか。

確かに古代からこの地に平野らしきものは存在した。しかし、後に中京と呼ばれ三大都市圏のひとつとなる「尾張平野」は宮田用水とともに誕生したのである。

御囲堤の跡(濃尾大橋付近)。
現在、木曽川左岸は近代的な大堤防となっているが、大部分は御囲堤を増強したものであり、
「御囲堤ロード」として「138タワーパーク(一宮市)」周辺は花見の名所となっている。

  • 前のページへ
  • 次のページへ
  • 尾張平野の最大資産 ― 宮田用水  通水400年